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『三国志集解』明帝紀_景初より、郡県の変更

明帝紀 景初元年五月

丁未、分魏興之魏陽・錫郡之安富・上庸為上庸郡。省錫郡、以錫県属魏興郡。
丁未、魏興の魏陽・錫郡の安富・上庸を分けて上庸郡と為す。錫郡を省き、錫県を以て魏興郡に属せしむ。


魏興・錫・上庸は、武帝紀 建安二十年に見える。
銭大昕:魏興郡は、(郡国・地理)志に、何年に立てたか記述がない。劉封伝が証拠となり、黄初元年と考えるべきである。魏陽県は、『晋書』・『宋書』の二志には記述がない。
呉増僅:魏興郡を立てたのは、黄初元年冬であり、文帝紀 延康元年に見える。

趙一清:魏陽は、魏昌の誤りである。『水経注』沔水によると、魏昌県は、黄初中に房陵を分けて立てた。新城郡には昌魏県があり、『晋書』・『宋書』に見えるため、昌魏県=魏昌県である。『方輿紀要』巻七十九に、昌魏城の位置に関する記述が見える。
安富は未詳で、これも魏が置いたとすべきであろう。『水経注』溳水に、富水という川があるため、その名を取って県としたと推定される。
『一統志』によると、魏昌は、昌魏の誤りである。(『一統志』所引)楊氏『水経注疏要刪』によると、『華陽国志』・『左伝』杜預注・『晋書』・『宋書』・『斉書』は、いずれも昌魏に作っている(魏昌は誤りである)。しかし、郭璞『山海中山経』の注は、魏昌に作っており、漢昌・晋昌と同じ命名方法であり、魏昌が正しいことになる。

盧弼:『宋書』州郡志によると、明帝の太和二年、新城の上庸・武陵・北巫を分けて上庸郡とし、景初元年、魏興の魏陽・錫郡の安富・上庸を郡としたという。(景初に上庸郡を置き直したということは)太和の後に省かれ、景初に再び立てられたのであろうか。『宋書』は、魏興の魏陽を分けたとあり、明帝紀と同じであるから、魏陽は誤りではない(根拠は『宋書』のみ)。魏陽の所在地は未詳である。魏陽を、魏昌にしたり、反転して昌魏にすることはできない。
李兆洛は、安富故城は、今の湖北省の鄖陽府の境にある。

明帝紀 景初元年十二月

丁巳、分襄陽臨沮・宜城・旍陽・邔四県、置襄陽南部都尉。
丁巳、襄陽の臨沮・宜城・旍陽・邔の四県を分けて、襄陽南部都尉を置く。


襄陽は、武帝紀 建安十三年に見える。『晋書』地理志に、献帝の建安十三年、魏氏が荊州の地を尽く得ると、南郡を分けて北を襄陽郡としたとある。

呉増僅:『沈志』は『魏略』を引き、魏文帝が立てたとする。いま関羽伝によると、劉備が江南の諸郡に拠ると、関羽を襄陽太守としたとあるが、劉備はこの時点で襄陽を領有していない。三国時代は、敵の領土を遙領することがあるが、実は全てその領土を実効支配しているため、虚領ということはない。『魏略』は信頼できない(襄陽郡は、関羽が郡として支配していた)と分かる。

『郡国志』に、荊州南郡の臨沮県があり、侯国とする。
関羽伝に、孫権が関羽を臨沮で斬ったとあり、ここのこと。

『郡国志』に、南郡の宜城県があり、侯国とする。
魏は改めて(南郡から)襄陽県に属させた。
呉増僅:『洪志』は、宜城を襄陽の郡地とするが、けだし『晋書』に拠っている。いま『魏志』に、襄陽の宜城を分けて襄陽南部都尉としたとあるが、襄陽の郡地が宜城であれば、どうして南部都尉に遷すことができようか。『方輿紀要』によると、魏は襄陽を治所とし、晋が初めて宜城に移した。魏代は、襄陽郡の治所が襄陽県だから、宜城県を南部都尉に移せたのである。

『晋書』地理志に、南郡の旌陽県があり、『宋書』州郡志は、南郡太守のもとに旌陽がある。南朝宋の文帝の元嘉十八年、省いて枝江に併せられた。両漢には、旌陽県がなく、『晋太康地志』によると、呉が立てたと疑われる。
銭大昕:旍陽=旌陽である。
洪亮吉:『広韻』によると、「旍」と「旌」は同じなので、同一の県のことで疑いがない。魏代に襄陽に属し、晋の受禅後、南郡に移された。『沈志』は、呉が立てたと疑っている。楽進伝に、「劉備の臨沮長たる杜普・旌陽長たる梁太を討ち、皆 大いに之を破る」とある。つまり、旌陽は、あるいは建安十三年、南郡が初めて呉に編入されたとき、分けて置かれたのだろうか。また魏初に襄陽郡を立てたとき、臨沮・旍陽の2県がなく、ゆえに『呉志』朱然伝・潘璋伝には、臨沮で関羽を捕らえたとあるから、関羽が敗れた後、南郡が再び呉に編入されたとき、2県は魏に隷属したのだろうか。

謝鍾英:『一統志』と『方輿紀要』は、旌陽県を枝江県のそばとするが、枝江は長江の南であり、魏は長江を越えて領有できないため、比定が誤っている。臨沮の近くと考えるべきであろう。

趙一清:旍陽は、『漢書』・『後漢書』に見えず、魏が置いたとすべきである。『隋志』によると、梁は旌陽県とあり、後に恵懐県と改めたが、これは宜城の県境にあり、魏代の旧名に因んでいるのであろうか。
『水経注』によると、西晋が呉を平定すると、臨沮県の北郷・中盧県の南郷を分けて、上黄県を立てて、治所を軨郷とした。「軨」と「旍」は、字が似ているから、軨郷は、旍陽の故地かも知れない。
周寿昌:『三国志』袁紹伝の注に、「援旌擐甲」とあるが、『後漢書』では「援旍」とあり、「旌」と「旍」が通用する証となる。また、注引の「干旌」を「干旍」にも作り、通用している。

邔県は、『漢書』・『後漢書』では南郡に属し、『晋書』・『宋書』では襄陽に属する。
『元和志』によると、邔城は、東のかた漢江に臨む。古諺に、「邔に東なし」というが、東に漢江が逼っており、その地がせまい(短促)であったから。

『続百官志』によると、ただ辺郡は、往々にして都尉が置かれ、県を分けて所属させ、民の統治は郡になぞらえたと。

明帝紀 景初元年十二月

分襄陽郡之鄀・葉県属義陽郡。
襄陽郡の鄀・葉県を分けて義陽郡に属せしむ。


『漢書』地理志に、南郡の若県は、楚の昭王が呉を畏れ、郢よりここに移り、後に復た郢に還ったと。顔師古は、「『春秋伝』は、鄀に作り、その音は同じである」とする。
『郡国志』に、南郡の鄀県は、侯国であるという。
『一統志』に、若県の故城は、宜城県の東南なりといふ。

葉県は、武帝紀 建安二年に見ゆ。
謝鍾英:葉は、『漢書』・『後漢書』では南陽郡に属す。襄陽は南陽の南にあり、葉県は南陽の北にある。位置が隔絶しているから、(明帝紀が変更前に属したとする)襄陽郡に属する理がない。また、襄陽郡は、南陽郡をまたいで葉県を帰属させることができない。義陽は、襄陽の東にあるから、南陽をまたいで葉県を(明帝紀が変更前に属したとする襄陽郡に)帰属させることができない。これは葉県が、襄陽に帰属しなかった理由となる。ここで葉県が移ったというのは、削除すべきではないか。

『水経注』沔水に、沔水は南を安昌故城の東をへるが、これは故の蔡陽の白水郷である。漢は舂陵県とし、光武帝が章陵県と改め、魏の黄初二年に今の名(安昌県)に改めた。もと義陽郡の治所である。
『太平寰宇記』巻百三十二:『魏志』によると、文帝は南陽を分けて義陽郡を立て、安昌城を治所とした。安昌・平林・平氏・義陽・平春の5県が属した。ゆえに『蜀志』に、劉備が呉を征伐し、軍を退くと、ときに義陽の傅彤は、後ろで防戦し、戦死したという(義陽の出身者がいる)。晋の武帝の泰始元年、南陽の東鄙を分けて、復た義陽郡を置き、安平献王の司馬孚の次子である司馬望を義陽王としたと。
『魏志』武文世王公伝の彭城王拠伝に、黄初三年、章陵王に封じ、その年に義陽王に封じたとある。

盧弼:以上に拠れば、文帝の黄初三年、章陵を改めて義陽とした。『水経注』が黄初二年というのは誤りとすべきである。義陽郡の治所は安昌で、安昌は、前漢の舂陵、後漢の章陵である。
『漢書』劉表伝注に、荊州八郡があり、一つは章陵である。魏文帝が改めて義陽とし、ゆえに曹拠は初め(黄初三年)章陵王となり、すぐに義陽王となったのである。思うに義陽は魏代にすでに廃され、ゆえに『寰宇記』は、晋の武帝の泰始期、復た義陽郡を置いたという文がある。『晋書』は、義陽郡の治所を新野とし、安昌を治所としない。葉県は、南陽に属したのであり(『左伝』杜預注も同じ)魏代は義陽郡に属さなかった。

明帝紀 景初二年 四月

壬寅、分沛国蕭・相・竹邑・符離・蘄・銍・龍亢・山桑・洨・虹[一]十県、為汝陰郡。宋県・陳郡苦県皆属譙郡。
壬寅、沛国の蕭・相・竹邑・符離・蘄・銍・龍亢・山桑・洨・虹の十県を分けて、汝陰郡と為す。宋県・陳郡の苦県 皆 譙郡に属せしむ。


趙一清:『漢書』地理志によると、山桑は沛に属し、『続郡国志』では汝南に属する。けだし、魏代には改めて沛国に属したのであろう。地理志は、虹を[工虫]に作るが、どちらも貢(コウ)という音で、のちにまた絳城とも言われた。

銭大昕:『晋書』によると、汝陰郡は8県を統べるが、明帝紀と一つとして同じでないため、誤りが疑われる。『晋書』巻十四 地理志上 豫州には、慎(故楚邑)・原鹿・固始・鮦陽・新蔡・宋(侯相)・褒信である。
宋県は宋公国で、後漢では汝南に属し、晋では汝陰に属した。

洪亮吉:汝陰郡は、黄初三年、汝南を分けて置いた。景初二年、沛郡の十県を来たりて帰属させ、全部で十八県となった。『通典』に、司馬懿が鄧艾に屯田をさせたとあるのは、ここである。『元和郡県志』に、魏文帝が黄初三年、汝陰県を汝陰郡に属させたとあり、汝陰郡を立てたのはこの年であろう。ただし『沈志』では、晋武帝が汝陰を立てたとある。いま、『晋書』地理志 汝陰郡を読むに、魏が郡を置き、後に廃し、泰始二年に復た立てたのである。『何承天志』汝陽県によると、汝陽県は、もとは汝陰郡に属し、晋武帝が改めて汝南に属させたと。
これらを合わせると、明帝紀 景初二年、魏は汝陰郡があったことが明白である。『沈志』は、誤って復た立てたとき(晋武帝)、初めて立てたと書いてしまったのだ。

謝鍾英:陳寿は、劉馥を「沛国の相県の人」とする。武周・薛綜を「沛国の竹邑県の人」とし、劉元を「沛郡の蘄県の人」とする。『寰宇記』虹県によると、魏初に汝陰県に属したという。この10県は、魏末には、もどって沛国に属していたのである。
魏は汝南を分けて汝陰郡を置き、その後、郡を廃して、県は汝南郡にもどした。ゆえに晋武帝は汝南を(再び)分けて汝陰郡を置いたと(『沈志』に)書いてあるのである。

呉増僅:『魏志』明帝紀は、景初二年、「沛国の蕭・相・竹邑・符離・蘄・銍・龍亢・山桑・洨・虹の十県を分けて、汝陰郡と為す。宋県・陳郡の苦県 皆 譙郡に属せしむ」とある。諸家は、これを汝陰郡が初めて置かれたとする。洪氏は、魏初に汝陰郡が立っていたとするが、この年、沛国の十県を移動させたのである。いま、志の文と洪氏の説を按ずるに、どれも疑わしい。
呉増僅は、景初二年、汝陰郡が立てられていない根拠をあげる。
①『元和志』に、黄初三年、汝陰県を汝陰郡に属させたとあり、明らかに汝陰郡は景初に立てられたのではない。
②郡名の汝陰は、属県が汝水に近かったからであり、十県は渦水の北にあって、汝水と近くない。
③属県の編成は、地理的な近さを考慮するが、この十県は渦水にあって、『洪志』が載録する汝陰郡の属県は汝水のそばにあり、両者は2百里も隔たっており(汝水との距離から、明帝紀が挙げる県は汝陰の郡名に相応しくなく、『洪志』は汝陰の郡名に相応しく)汝陰郡に属せない。
④『晋書』が列挙する汝陰郡の属県は、明帝紀の列挙する10県と、1つも一致しない。
以上から、明帝紀の汝陰郡を作ったというのは、衍字である。

志の凡例(書き方のルール)によると、「○○県を以て○○郡に属せしむ」といい、「皆」という字がない。ただ宋県・苦県は、「移して譙郡に属せしむ」といい、鄀県・葉県の2県は、「移して義陽に属せしむ」というのが普通で、必ずしも「皆」という字がないものである。いま、明帝紀に「皆」とあるのは、上の(汝陰郡に属したという)10県全てもまとめて、ということである。
『元和志』によると、銍県・山桑の2県は、どちらも魏代に譙郡に属したといい、『晋書』は譙郡の属県として、なお銍県・蘄県・山桑・龍亢の4県が属したという。魏の明帝の末年、沛国の10県を移して譙郡に属させた証である。晋初、竹邑ら6県を分けて、沛国に還したのである。
譙県は、曹氏にとっての、(周王朝における)豊・鎬と同じであり、五都に並べられ、ゆえに多くの県を編入して、大きな郡としたのである。晋が受禅した後、その属県をもとに戻した。いま10県を移して、譙郡に編入したのである。
『晋書』を按ずるに、魏が汝陰県を設置し、後に廃止し、泰始二年に置いたという。『輿地広記』も同じである。
『寰宇記』に、魏が汝陰郡を置き、司馬懿が鄧艾にここで屯田をさせたが、後に廃止されたとある。鄧艾が屯田をしたのは、鄧艾伝によると、正始中であり、その後、汝陰郡のことは歴史書に出て来ない。汝陰郡が省かれたのは、嘉平五年、斉王が郡を省いたときであろうか。

王先謙:呉増僅は、明帝紀の文「汝陰郡とする」を誤りとして、明帝は、沛国の蕭県・相県を譙郡に属させたとすべきと言うが、説には根拠がない。洪氏・謝氏は、どちらも明帝紀に拠って、移して汝陰郡に属させたが、郡を省いて汝南に還したという。
しかし、『淮水注』は、文帝が城父・山桑らを属させて譙郡を置いたと明記している。つまり汝陰郡が省かれたときは、山桑県は(汝南でなく)譙郡に還して属したと考えるべきである。

盧弼:汝陰に郡を置いたのは、まことに疑義はない。ただし、蕭県・相県ら10県は、汝陰郡に属したのではなく、竹汀(銭大昕)は、志に誤りがあると疑っている。呉増僅は、それなりに信憑性がある。しかし、呉増僅の説のとおりなら、蕭県・相県ら10県はすべて沛国に属し、苦県は陳羣に属したと『郡国志』にあるが、宋県だけが汝陰に属したとあり、『魏志』に明らかな文がないが、宋県は廃止された汝陰郡に近く、『晋書』・『宋書』とも、宋県を汝陰郡に属させている。必ず、黄初期に汝陰郡が置かれたとき、汝南から(所属する郡を)改めて、汝陰に属したはずである。『洪志』は、宋県は漢代の旧県であり、魏では汝陰に属し、景初二年に譙郡に移ったとしており、依拠してよいだろう。
このように理解すれば、呉増僅の説は、すべて通じる。
『淮水注』に、魏の黄初期、文帝が、酇県・城父・山桑・銍県をもって譙郡を置いたとあるが、これは志の文と合わない。山桑・絰県は、すでに譙郡に属しており、沛国に属したとは言えない。あるいは、山桑・絰県は、黄初期には、かつて譙郡に属しており、すぐに沛国に還ったのであろうか。

明帝紀 景初二年 四月

以沛・杼秋・公丘・彭城豊国・広戚、并五県為沛王国。
沛・杼秋・公丘・彭城の豊国・広戚を以て、五県を并せて沛王国と為す。


『郡国志』に、沛国には、沛県・杼秋・公丘・豊県があり、彭城国に広戚があったとする。
銭大昕:豊県は、もとは沛国に属したが、いまは彭城の下に繋がれ、恐らく誤りである。豊県は、かつて王国であり、ゆえに豊国という呼称がある。

洪亮吉:沛国は、秦の泗水郡である。漢が今の名に改めた。魏の景初元年、国となり、5県を領した。
謝鍾英:豊国は、魏初に彭城に移ったと考えるべきで、ゆえに(明帝紀で)彭城の下に書かれており、(銭大昕は誤りというが)誤りではない。潘眉の説も同じ。沛王林は、太和六年に封じられており、洪氏が景初元年に国になったというのは誤りである。

呉増僅:沛県・杼秋・公丘ら5県が、沛王国となったというなら、上の文で「沛郡らの10県を分けた」とすべきで、「沛国を分けて」と言うべきない。ましてや曹林を先に封建していたならば(郡から国への変更は、この時期ではない)。

盧弼:志の文では「豊」の字は、彭城の上に置くべきであり、そうすれば全文の意味が通る(豊国は、彭城でなく沛国の配下とすべきである)。豊県が王国となるのは、嘉平六年に曹琬が、承襲した後である(曹琬はこのとき長子公を封じた)。この時点で、豊国と称すべきでない。沛・杼秋・公丘・豊は、もとは沛国に属したから(所属に変更がないのに)なぜ列挙する必要があったか。沛国は、もとは21城あり(『郡国志』)、すでに10県が他郡に分けて転出しており、のこりも省かれ併わされ、残りは、沛・杼秋・公丘・豊の4県だけであった。彭城の広戚を合わせて、5県を沛王国としたから、わざと特記したのである。
彭城国は、武帝紀 建安三年に見える。180221

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