読書 > 閻歩克「詩国:王莽庸部・曹部探源」抄訳

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概要と問題提起

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概要

史料に見えるように、新の王莽は、「州牧・部監25人を置いた」とあり、同時に西部監・北部監・東部監および庸部牧・曹部監なども置かれた。「牧」と「監」の性質と関係は、従来、よく分かっていなかった。
「庸部」・「曹部」は公の封国に置かれたもので、『詩経』国風に、「詩に国は15あり」とあるから、(15人が置かれたはずである)。

Wikipediaで恐縮ですが、「国風は、周南・召南・邶(はい)・鄘(よう)・衛・王・鄭・斉・魏・唐・秦・陳・檜(かい)・曹・豳(ひん)の15の国と地域の小唄や民謡を収める」とのこと。

王莽の始建国四年、東南西北中の五部監を設け、それぞれ25郡を監した。同時に別に16の公国があり、これは「詩に国は15あり」の15に、定安公国1を加えたものである。
これら半数に「牧」を設け、残りの半数に「監」を立て、州牧と同レベルとした。天鳳元年、5郡ごとに1監を置き、全部で25郡監があった。地皇二年、さらに九州及び十六公国に「牧弐」・「監副」を設置したという。

キーワード

漢代・王莽・州牧・部監

王莽が法制を変えたとき、地方の行政・監察においても、大きな変更があり、国家行政を煩わせただけでなく、史書を読む者にも少なからぬ疑問を与えた。
史書によると、天鳳元年(14年)、「州牧・部監25人を置く」とある。この部監と州牧は、どのような関係があるか、明らかでない。学者が指摘するように、印章・簡牘のなかに、東部監・西部監・北部監を見つけることができ、さらに史書には、庸部牧・曹部監がある。当時の事情は、いまだによく分からない。
近年、王莽の方・州・部・郡の関係に、新たな知見を得た。庸部・曹部は、「部」の一種であるが、これは『詩経』に関連があるのである。庸部・曹部のことが分かれば、州・部と牧・監のことを理解できるはずである。さらに、王莽の地方行政・監察制度について、理解が進むであろう。

問題提起

漢代の地方行政・監察制度は、王莽の「復古改制」運動のなかで、重大な変化をとげた。『漢書』巻99 王莽伝によると、漢の平帝元始五年(5年)、王莽は『尚書』尭典の「はじめに十有二州」とあることに基づき、

(注:原语见今本『尚書·舜典』。『舜典』原系『尧典』的下半篇。可参看蒋善国『尚書综述』(上海古籍出版社,1988年)第29页。)

前漢の13州部を、12州に改めた。12州とは、雍州・豫州・冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荆州・益州・幽州・并州・交州である。

(注:『尧典』原无十二州之名,其十二州为何,因揚雄『十二州箴』而明。参看譚其驤『两漢州部』,『中国大百科全書·中国历史』第2册,中国大百科全書出版社,1992年,第582页。)

王莽が皇帝即位した後、始建国四年(12年)、「州は『禹貢』に従って九とする」とある。九州の制に改めた。『禹貢』の九は、冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荆州・豫州・梁州・雍州である。前漢末から王莽期、「州」の変遷は、13州から12州をへて、9州へと変化したのである。

しかし史料に、王莽の天鳳三年(16年)、「并州牧の宋弘」と見える。『禹貢』九州制のなかに、并州はない。譚其驤氏は、「どうして(王莽の)即位後、九州制に改めたとあるのに、実行されていなかったか。王莽の九州の法は、ただ紙面上に留まったためである」とする。

(注:譚其驤:『新莽职方考』,『长水集』上册,人民出版社,1987年,第49页。)

沈展如氏は、「王莽は『禹貢』に従って九州制としたが、冀州のかわりに并州を置いた」とする。

(注:沈展如:『新莽全史』,台北:正中書局,1977年,第182页。)

王莽は、『禹貢』九州から、冀州を除き、代わりに并州を置いという説である。
林剣鳴氏は、沈展如氏の説を支持する。

(注:林剑鸣:『秦漢史』下册,上海人民出版社,1989年,第82页。)

厳耕望『秦漢地方行政制度』は、このことに触れていない。

(注:严耕望先生叙两漢地方監察制度,于此仅云,漢成帝、漢哀帝改刺史为牧伯,“王莽承之”,四字而已。参看其『秦漢地方行政制度』,『中央研究院历史语言研究所专刊』(台北)1997年,第283页。)


王莽の天鳳元年、さらに「部監」を設けたという。しかし、『漢書』と『漢紀』は、記述が異なる。
『漢書』王莽伝:王莽は、『周官』『王制』の文に基づき、州牧・部監25人を置き、礼は三公と同じ。監の位は上大夫であり、それぞれ5郡をつかさどる。合計で125郡があり、九州のもとに2203県があった。
荀悦『漢紀』巻30 平帝紀 王莽の天鳳元年:王莽は『周官』『王制』の文に基づき、州牧を置き、その礼は三公と同じ。郡監25人を置き、位は上大夫であり、それぞれ5郡をつかさどる。

『漢書』王莽伝の「州牧・部監25人を置く」は、奇怪である。九州のもとに2203県というから、当時は九州制が実行されていたはずである。州が9しかなければ、「州牧・部監25人」はどのように理解したらよいか。饶宗颐・李均明氏は、「当年、州牧・部監25人を置いたが、9州の牧を除き、残りは部監である」とする。

(注:饶宗颐、李均明:『新莽简辑证』,台北:新文丰出版公司,1995年,第133页。)

すると、部監は16人となる。では、なぜ部監は16人なのか。部監と州牧の関係はいかなるものか。饶・李両氏は、理由を説明していない。

荀悦『漢紀』の記載は、分かりやすい。「礼は三公と同じ」の文が「州牧」の後にあり、「それぞれ5郡をつかさどる」は「郡監25人」の説明であって、9人の州牧に掛からない。合計で125郡というのは、王莽が企画した「天下を125郡とする」の数に一致する。
しかし『漢書』王莽伝の「部監」を、『漢紀』は「郡監」に作る。「部」と「郡」は字形が近く、紛れやすい。学者は一般に「部監」を正しいとし、『漢紀』の字を改める。

(注:例如张烈点校『漢紀』(『两漢紀』,中华書局,2002年)上册第535页及第556页注121。)

王念孫だけが『漢紀』を正しいとし、「部監は郡監に作るべきで、州牧は9人、郡監は25人いた」としている。

(注:王念孙:『读書杂志』七,北京中国書店,1985年,中册,第19页。)

刘德增氏は、『漢紀』の説明を支持しながら、役職名だけは、王莽伝の「部監」を使っている。

(注:刘德增:『王莽官制述论』,『山東大学学报』1985年第4期。)

これは、王念孫氏と異なる理解である。

天鳳三年に設置されたのは、州牧・部監をあわせて25人である。9人の州牧以外に、郡監(あるいは部監)が25人いたのか。これは、未解決の問題である。譚其驤氏の『新莽职方考』は、もう1つの疑問を提示する。

「天鳳三年、王莽が詔令を百官に下して、『東方3州1部、南方2州1部、西方1州2部、北方2州1部』とある。『後漢書』隗囂伝の本文もまた、『州牧・部監に告げる』という文がある。古くの封泥に『東部監の印』とある。……つまり王莽の制度では『部』があり、『部』に『監』を置いたことになる。
……王莽伝中・下に、『庸部牧の史熊・李曄』がある。『部牧』であって『部監』でない。『部』は『監』の外に置かれ、さらに『牧』を置いたのか。『牧』の『部』(「部牧」を置いたなら)、『監』の『部』(「部監」)と同じものなのか。この詔令は、四方(東西南北)5部に下されたが、(25-5=20だから)中央に20部あったのか。分からない」という。

(注:譚其驤:『新莽职方考』,『长水集』上册,第81页。)


譚其驤氏が引いたのは、天鳳三年(16年)の詔令である。担当地域で自然災害があったら、中央の公卿もそれに応じて減俸して、苦しみを共有せよという命令であった。『漢書』王莽伝中に、朝官(中央の公卿)の担当地域が記される。
 ・太師、立国将軍保東方三州一部二十五郡
 ・太傅、前将軍保南方二州一部二十五郡
 ・国師、寧始将軍保西方一州二部二十五郡
 ・国将、衛将軍保北方二州一部二十五郡
 ・三公大司馬、大司徒、大司空保中部二十五郡
王莽の制度は、太師・太傅・国師・国将を「四輔」とし、立国将軍・前将軍・宁始将軍・衛将軍を「四将」とし、これを組み合わせ、東西南北の四方を担当させた。合計すると、8州、5部、100郡となる。これ以外は、三公が中央部の25郡を担当した。
譚其驤氏の質疑から、3つの問題が見つかる。
第一、王念孫は「部監25人」の「部監」を「郡監」すべきとしたが、史料では明らかに「部監」とある。「州牧・部監に告ぐ」とか「東部監」とあるように。
第二、もし「部監25人」を採用したら、天鳳三年の詔令と衝突する。詔令には、ただ四方の5部があるだけである。それ以外の20人の部監はどうなったのか。
第三、史料に「庸部牧」とある。この「部牧」という職名は、「州牧」「部監」と異なるが、これは何なのか。

詔令にある「西方1州2部」という文を、杨树达氏は誤りと見なし、「西方2州1部」とするべきという。

(注:杨树达先生说:“一州二部,景祐本同,疑当作二州一部。”『漢書窥管』(杨树达文集之十),上海古籍出版社,1984年,第825页。)

杨氏の見解は、その通りであろう。
もし見解に従えば、王莽は東南西北の四方に合計で9州・4部を置いたことになる。四輔・四将の管轄のほかに、王莽伝の三公の管轄地域にも記述に誤りがあり、これを訂正すると、三公が「中部」を管轄したと分かる。東南西北の四方の4部と並列関係にあり、その下に25郡があった。
王莽は、東、西、南、北、中の5部を設け、それぞれ25郡があり、合計で125郡となり、王莽が規定した天下の郡数に一致する。

(注:对九州及五部问题,在本文的姊妹篇『文穷图见:王莽保灾令所见十二卿及州部辨疑』中另有详考。本文只作简述。)


それならば、天下にあるのは5部だけである。「部監25人」という文と合わない。
饶宗颐氏は、「譚其驤の疑義は正しい。王莽伝には、部監には杜普がおり、部牧には史熊がいる。西南夷伝・『後漢書』廉范伝に、どちらも「庸部牧」の名が見える。つまり部には、「監」のほかに「牧部」が置かれ、「牧」が統領したから「部牧」と呼ばれたと思われる。よく分からないと。

(注:饶宗颐:『新莽职官考』,『饶宗颐史学论著选』,上海古籍出版社,1993年,第197页。)

饶氏の取りあげた「部監の杜普」が担当したのは「曹部監」であり、『漢書』王莽伝下に見える。

以上から、州牧・部監・郡監の問題は、さらに複雑になった。「州牧・部監25人」の問題は、詔令に見えた東南西北中5部のことと、庸部牧・曹部監などと合わせて考えるべきである。171022

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二、庸部、曹部与“诗国”(作成中)

州牧・部監の問題において、庸部・曹部のことは、もっとも難しい部分である。さきに、庸部・曹部の用例を整理する。

『漢書·王莽传中』天鳳三年: “更遣宁始将軍廉丹与庸部牧史熊击句町。”又,『漢書』巻95『西南夷两粤朝鲜传』天鳳三年:“更遣宁始将軍廉丹与庸部牧史熊大发天水、陇西骑士。”顔師古注:“莽改益州为庸部。”
『漢書·王莽传下』天鳳六年: “更遣复位后大司馬护軍郭兴、庸部牧李晔击蛮夷若豆等。”
『后漢書』巻13『公孙述传』:“又商人王岑亦起兵于雒县,自称定漢将軍,杀王莽庸部牧。”李贤注:“王莽改益州为庸部,其牧宋遵也。”
『后漢書』巻31『廉范传』:“祖父丹,王莽时为大司馬庸部牧。”李贤注:“王莽改益州为庸部。”
『漢書·王莽传下』地皇四年(公元23年):“莽揚州牧李圣、司命孔仁兵败山東,圣格死,仁将其众降,已而叹曰:‘吾闻食人食者死其事。’拔剑自刺死。及曹部監杜普、陈定大尹沈意、九江连率贾萌皆守郡不降,为漢兵所诛。”

史料の引用なので、抄訳しません。


顔師古・李賢らの学者は、すべて「益州」を「庸部」とする。近年の学者たちも、同じ見解である。

(注:例如王谨『王莽与州刺史改州牧』,以“益州,王莽改”注庸部(『山西師大学报』2000年第1期);汪清『王莽时期州制的变化兼论都督制的滥觞』说“句町在庸部统辖之内”(『郑州大学学报』2000年第5期);罗开玉『论历史上巴与蜀的分分合合』云“王莽改‘益州’为‘庸部’”(『社会科学研究』2000年第5期);等等。)

『後漢書』巻75 劉焉伝の賛に、「焉作庸牧,以希后福」とある。南朝宋の范曄も、「庸」を益州の呼称に使っている。しかし孟康は、「王莽が定めた州牧・部監は、州は州であり、部は部である。史熊が庸部牧となったとあるが、州牧・部牧は一つのものであった(?)」とする

(注:『资治通鉴』巻38『漢紀』“王莽天鳳三年”胡三省注引。)

孟康は曹魏の時代のひとで、「庸部牧」の表記が分かっておらず、後世の范曄・顔師古・李賢のほうが分かっている。

5部・25監は、庸部・曹部のことよりも、混乱している。解決のため、王莽の始建国四年の九州制を行う詔を見ていただきたい。
「尭典には12州あり、衛は5服がある。『詩』には国が15あり、九州に遍在した。

(注:“卫有五服”典出『禹貢』,此前似夺四字。)

庸部・曹部の秘密は、「詩国十五」のなかにあるように思われる。3つの点について論じたい。
第一、庸部・曹部のたぐいが地方に置かれたが、「詩国十五」に基づく。
第二、王莽の「詩国」は、公爵の封地である。
第三、庸部牧・曹部監は、王莽が設けた公国の監管の官である。

第一、顔師古注が「诗国十五」にある。
周南、召南、卫、王、郑、齐、魏、唐、秦、陈、郐、曹、豳、鲁、商の15国のことである。あるいは、周南、召南、邶、墉、卫、王、郑、齐、魏、唐、秦、陈、郐、曹、豳の15国のことであるという。
顔師古注は、唐代の「十五国風」の2種類の理解に基づいている。前者は魯・商があって、邶・墉がない。後者は、邶・墉があって、魯・商がない。庸部・曹部の状況をみると、王莽は、現在「十五国風」と呼んでいるものと同じである。「庸」「曹」の二字は、『詩経』国風の『墉風』と『曹風』を出典とすることが分かる。すると、「庸部」「曹部」の「部」は、王莽が『詩経』を参照して設立した、地方の単位と分かる。

庸部牧・曹部監のほかに、「魏部牧」と「邠部監」も(出土資料に)見える。
魏部牧弐印(编号589)。

(注:罗福颐编『秦漢南北朝官印征存』,文物出版社,1987年,第105页。)

・问兵且来出,未常安也。何故邠部旋征遣且发部郡兵出耶?(简号78)

(注:『敦煌漢简』下册,中华書局,1991年,第223页。 “故”原作“@③”,据饶宗颐、李均明说改。见其 『 敦煌漢简编年考证』,台北:新文丰出版公司,1995年,第113页,)

・敦德,诣  关,二十六日夜到邠部監从事(简号288)。

(注: 『敦煌漢简』下册,第230页。按,此条材料系孙正軍同学提供,特此致谢。)


庸部・曹部を見たら分かるように、「魏部」は、『魏風』に基づき、「邠部」は『豳風』の「豳」である。饶宗颐・李均明氏は、上に引いた文に、「夜到邠,部監从事」とあり、「部監」がとあるから、部に監が置かれたことが分かり、封泥の「東部監の印」と一致するとする。ここでは、邠地の部監を指しており、邠とは、豳のことである。

(注:饶宗颐、李均明:『新莽简辑证』,第6页。)

2つめに引いた「邠部」も同じである。饶・李両氏は、「邠部監」と「東部監」を同一視するが、違うであろう。「邠部」は詩国十五を出典とするが、方位をいった「東部監」とは違う。東部監は、北部監・西部監の系統である。

歴史書にあるように、王莽は古文・経文に基づきたがる。九州制の詔では、『尭典』から十二州を引き、「衛有五服」は『禹貢』を引くから、『詩経』十五国を引いても、不思議ではない。
庸部・曹部・魏部・邠部の4つが証拠となり、「詩国」が置かれたことが分かるが、それだけではない。詩国は、ただの地方の単位であったか。詩国は地名のみならず、周の天子が諸侯を封建した国名である。王莽の設けた、庸部・曹部・魏部・邠部は、分封(封建)制度と関係がある。これが二つめの論点につながる。

始建国四年、王莽は九州制に改めたのと同時に、周朝の五等爵制度を定め、公、侯、伯、子、男および附城を分封し、あわせて茅土を授けた。『漢書』王莽伝中に、
诸公一同,有众万戸,土方百里;侯伯一国,众戸五千,土方七十里……今已受茅土者,公十四人,侯九十三人……
とある。
在王莽“授诸侯茅土”时,受茅土的人中有“公十四人”。“十四人”这数目十分微妙,他跟“诗国十五”是不是有某种关系?照我看来,王莽封公之数恰为十四,乃是用来比附『诗经』十五国风的;至于为什么“诗国十五”而公仅十四呢?这必与『国风·王风』相关。『王风』出自東周的洛阳,王莽也以洛阳为東都,这个地区属于王畿。或许因为王畿不封,故“公”仅十四;或许还有别的原因,在后面还将加以揭示。无论如何,庸部、曹部、魏部、邠部,我认为都是公国封地,在“诸公一同,有众万戸,土方百里”之列。

  这十四公包括些什么人呢?新莽称公者,有一种以“×新公”为称,还有一种以“功×公”为称。先看第一种。王莽始建国元年(公元9年),任命了四辅、四将、三公等十一公,并分别给予了安新公、就新公、嘉新公、美新公、承新公、章新公、隆新公、广新公、奉新公、成新公、祟新公,“凡十一公”。然而这十一公只是名号罢了,并非公爵。公爵之所封,应该主要是王莽的皇子皇孙。王莽定制:“封王氏齐缞之属为侯,大功为伯,小功为子,缌麻为男,其女皆为任。”以此类推,则王氏家族的直系子孙,就该是封公的了。这就是第二种以“功×公”为称者。如始建国元年,王莽曾把其子王宇的六子,也就是他的皇孙封公:王千为功隆公,王寿为功明公,王吉为功成公,王宗为功崇公,王世为功昭公,王利为功著公。地皇二年(公元 21年),王莽还封了其所幸侍者所生的王兴为功修公,王匡为功建公。那么始建国四年“受茅土者公十四人”,主要应是王莽的直系子孙。   这就可以进入第三点了:庸部、曹部、魏部、邠部的“牧”、“監”,又是怎么回事儿呢?饶宗颐、李均明先生曾推测说:“牧監之设本于『周礼』。『周礼·大宰』:‘乃施典于邦国而建其牧,立其監。’『大司馬』:‘置牧立監,以维邦国。’”(注:饶宗颐、李均明:『新莽简辑证』,第132页。)现在我们可以说,『诗经』和『周礼』二者,都是“诗国”规划之所本。庸、曹、魏、邠之名来自『国风』,而牧、監之设,则应来自『周礼』的“置牧立監”之说。人们都知道,“『周礼』的邦国是指侯国”,(注:可参看彭林『〈周礼〉主体思想与成書年代研究』,中国社会科学出版社,1991年,第222页。)假如王莽采纳了『周礼』“置牧立監”的做法,那么必是用之于“邦国”而不是州部的。那么反过来说,这又印证了前述的第二点判断:庸部、曹部、魏部、邠部之类“诗国”,应是新莽时的封国。反观顔師古、李贤等以“益州牧”来解释“庸部牧”,把邦国与州牧混为一谈,而那并非王莽本意。   周初的“三監”制度,也许就是『周礼』“置牧立監”之所本。然而总的说来,周天子对邦国的管理毕竟相当松散。学者判断『周礼』成書较晚的理由之一,就是『周礼』中周天子对邦国的控制比西周紧密得多了。战国君主往往派遣官吏代替封君管理封邑,连『孟子·万章上』也有了“象不得有为于其国,天于使吏治其国,而纳其貢税焉”的说法。对权势一毫不肯放松的王莽参考『周礼』,为“诗国”置牧立監强化中央集权与控御,倒不在情理之外。   若认定王莽是比附『周礼』而“置牧立監”的话,还可推断王莽的“诗国”半数量牧而半数立監,即七牧七監,正如庸部牧、曹部監、魏部牧、邠部監所显示的那样。又『王莽传中』天鳳元年制度:“公氏作牧,侯氏卒正,伯氏连率,子氏属令,男氏属长,皆世其官,其无爵者为尹。”九州本已有牧了,怎么又弄出来一个“公氏作牧”呢?现在我们知道,这个“牧”是“诗国”的牧,实含牧、監二官在内。   “诗国十五”之法,是什么时候实行的呢?『尧典』“十有二州”,始行于平帝元始五年;始建国四年建九州时,王莽授五等爵者茅土;天鳳元年王莽把五等诸侯与郡县制结合起来,并宣示了『禹貢』五服之制;天鳳三年颁“保灾令”,其时“诸侯、辟、任、附城、群吏亦各保其灾害,”诸侯既然也得参加保灾害,则必然有土可保。王莽天鳳四年又“更授诸侯茅土于明堂”,而且让诸侯就国:“各就厥国,养牧民人,用成功业。”那么诸侯一定是有国可就、有土可居的了。有人怀疑王莽的五等爵只是虚封而已,我想并不尽然。当然,这时仍有一些“遣侍于帝城者”没有就国,他们由纳言掌货大夫调都内故钱供给之,公岁八十万,侯伯四十万,子男二十万。在上述一系列事件中,“诗国十五”的出现,应在平帝元始五年至始建国四年之间。尽管王莽始建国四年分封后“以图簿未定,未授国邑”,但十四公之国邑所在地应已确定,“未授”只是暂由牧、監代管而已。   『诗·墉风』之“墉”原是周武王灭商之后所立之邦,本在河北的朝歌附近,周公東征后又把墉及邶迁到了河南洛邑。可是王莽庸部牧史熊曾参与平定句町战事,杀死王莽庸部牧的王岑又是在雒县起兵的,这跟洛阳都有相当距离。按,周代另有庸国,属南蛮,是『牧誓』所见西土八族(庸、蜀、羌、@⑤、微、卢、彭、濮)之一。春秋前期庸国曾给楚国造成很大麻烦,后来楚庄王联合了秦国和巴人灭庸置县。有人推测屈原的祖先就是庸国人。其故地在今湖北竹溪,近年其地发现了7.5万平方米的庸国遗址。讨论中李新峰先生认为,王莽很可能是拿古庸国当『墉风』之“墉”了。我觉得李先生的看法不错。南北朝时,北周的国公之封也有庸国公,而且还封了蜀国公、卢国公、彭国公,(注:庸国公如王雄,蜀国公如尉迟迥,卢国公如尉迟运,彭国公如刘亮。并见『北周書』。)四者都在西土八族之列。这是很有意思的,因为北周也以“周”为标榜,还曾索性恢复了『周礼』六官之制。不妨把新莽之庸部与北周的庸国一并观察。   至于『曹风』之“曹”,初封之地在今山東定陶西南。从『王莽传下』的情况看,曹部監杜普是因山東战乱而死的,可以推测王莽“曹部”正在山東,即曹国故地。   『豳风』之“豳”,故地在今陕西旬邑。敦煌漢简中“敦德,诣 关,二十六日夜到邠部監从事”中的敦德,即敦煌郡。敦煌之所以跟邠部发生了关系,是因西域正进行着激烈的战争,要到邠部来搬救兵,与简文“何故邠部旋征遣且发部郡兵出耶”所反映的情况是一致的。由此可知,十四“诗国”都是实体,可以向之征发士卒。   罗福颐释“魏部牧弐印”的“魏部”:“当为王莽所设州部之一。”按魏部只是部,而不是州。『魏风』之“魏”,其故地在今山西芮城,在西漢为河東郡。然而王莽在天鳳元年又把河東郡改为“六队郡”之一的“兆队”,这地方似乎就容不下魏部了。所以我们估计王莽把“魏部”挪了地方,正如他改变了“庸部”所在地一样。   由“魏部牧弐印”,知“诗国”的牧、監还各有其“弐”。这“弐”又是怎么回事呢?查『漢書·王莽传下』:“(地皇)二年正月,以州牧位三公,刺举怠解,更置牧監副,秩元士,冠法冠,行事如漢刺史。”“魏部牧弐”应以“牧監副”来解释,“牧監副”既包括州牧之副,也包括“诗国”的牧、監之副,亦即:“以州牧、部監位三公,刺举怠解,更置牧弐、監副。”这是新莽地方監察制度的又一个变化。

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三、“州牧、部監二十五人”与“大将軍二十五人”(作成中)

  澄清了庸部、曹部之后,再来看“東部監”这类以方位命名的部監。陈直先生有论:   『漢印文字征』第六,有“東部監之印”。王莽部監有二十五人,部名『漢書』未详,据印文似其中包括有東西南北四部監之名。又按:『流沙坠简·考释·杂事三』,有简文云:“德侯,西域、東域、北域将尉,雍州、冀州牧,西部、北部監,文德,酒泉,张掖,武威,天水,陇西,西海,北地。”此简虽为戍卒漫書,但西部監、北部監文字甚为分明,与印文可以互证。(注:陈直:『漢書新证』,天津人民出版社,1979年,第481页。)   陈先生所举例子,凸显了又一种“部監”,它们以方位命名,如東部監、西部監、北部監之类。陈先生把它们置于“部監二十五人”之列,我们的看法与之不同。根据“保灾令”,天下東南西北中五方各有一部,合计五部,每部之下各有二三州。因而我做如下判断:这些以方位命名的部監,就是上述五部之監,属監察之职。它们涵盖了二州或三州,与“诗国”十四公的封地所构成的部,并不相同。   五部監与“部監二十五人”,又是什么关系呢?『漢書』说,王莽“置州牧、部監二十五人,见礼如三公。監位上大夫,各主五郡”; 『漢紀』说,王莽“置州牧,其礼如三公。郡監二十五人,位上大夫,各主五郡。”哪一说法是正确的呢?   首先可以看到,『漢書』有“監位上大夫,各主五郡”之语,『漢紀』有“郡監二十五人,位上大夫,各主五郡”之言,所以无论依哪种说法,都应该另有一种主五郡的、其官阶“位上大夫”的“監”存在,它们共25人。这不该存在疑问。所以,曹部監、邠部監之类“诗国”之“監”,和東部監、西部監、北部監之类四方之“監”,以外,主五郡的“監”构成了第三种“監”。这种“監”位上大夫,与“见礼如三公”的州牧不在同一等级,应如王念孙所论,视为“郡監”。   进而『漢書』的“置州牧、部監二十五人,见礼如三公”之说,该如何理解呢?这意味着还有一种部監,它们与州牧平级,位遇都同于三公,加在一起是25人。不仅从“见礼如三公”的位阶上看,它们不同于“位大大夫”的郡監,而且从数量看它们也不会是郡監,因为郡監本身已达25人了,再加九州牧就到了34人;同时也不会是東南西北中五部監,因为五部監加九州牧只14人,比25人又差的太远。当然也可以依从『漢紀』,索性抹杀『漢書』的“部監二十五人”六字,这么做虽然省事,不过却有材料显示,州牧一级的地方官员,确实是该有25位的。详下。   『漢書·王莽传下』地皇元年:   莽见四方盗贼多,复欲厌之,又下書曰:“予之皇初祖考黄帝定天下,将兵为上将軍,建华盖,立斗献,内设大将,外置大司馬五人,大将軍二十五人,偏将軍百二十五人,裨将軍千二百五十人,校尉万二千五百人,司馬三万七千五百人,候十一万二千五百人,当百二十二万五千人,士吏四十五万人,士千三百五十万人,应协于易‘弧矢之利,以威天下’。予受符命之文,稽前人,将条备焉。”于是置前后左右中大司馬之位,赐诸州牧号为大将軍,郡卒正、连帅、大尹为偏将軍,属令长裨将軍,县宰为校尉。   有人认为,这段材料可以反映王莽的兵制。(注:饶宗颐:『新莽职官考』,『饶宗颐史学论著选』,第191页。)然而细审这份诏書,似乎只是一种以加号为厌胜的装神弄鬼之法而已;即便可以反映王莽兵制,也不过是间接的反映罢了。简言之,王莽附会黄帝之制,为州郡县长官加上了大司馬、大将軍、偏将軍、裨将軍、校尉等号,以此威吓各地的“盗贼”们。那么,我们就可以根据大司馬、大将軍、偏将軍、裨将軍、校尉这些加号的数量,来推断各级地方官员的数量了。   “前后左右中大司馬”共五号,它们是加给谁的呢?前文已阐明了東南西北中五部監制度,五部監与五号大司馬五对五,所以可以判断,大司馬应是加给五部監的。当然也有可能,是把東南西北中五部監改称大司馬了。偏将軍所加为125人,这与天下125郡,也恰好吻合。   数量上看着不相合的,首先是县宰与校尉。按照黄帝之制,校尉有12500人,可天鳳元年“九州之内,县二千二百有三”,校尉之数与县数差距太大。我想所谓黄帝之制不过是纬書中的臆说罢了;王莽本事再大,也不可能在2203个县外再弄出一万多县来。要么,他只给2203个县宰加了校尉而已,其间差额就听之任之了;要么,就是给县尉、县丞什么的也加上了校尉,以凑足12500名校尉之数。   第二个看着不相合的地方,是“大将軍二十五人”和“赐诸州牧号为大将軍”。从文字看,州级长官应有25位。王莽地皇二年有shēn@⑧为大将軍、揚州牧,那么“赐诸州牧号大将軍”是确有其事的。可州牧止9人而已,远不足25人。这又是怎么回事儿呢?也许王莽只给9位州牧加号为大将軍,其余16个空缺就搁置不管了?不过,这很不符合王莽酷爱整齐完美的性格和风格;而且,前论『漢書』天鳳元年(14年)原有“置州牧、部監二十五人”的记载,这跟大将軍25人,数目上若合符节、交相辉映。我坚持认为,这两个“二十五人”有内在的联系,不是碰巧。   问题的关键就在这里:我们已知道東南西北中五部監外,还有一种为“诗国”十四公所置的牧、監。那么拿“诗国”14部的牧、監来加9位州牧,共计23人,比之“州牧、部監二十五人”和“大将軍二十五人”之数,居然只差两人,实在是太接近了!饶宗颐、李均明曾推测:“当年置州牧、部監二十五人,除九州牧之外,余下即为部監数。”尽管饶、李二先生未能区分五部監与“诗国”十四部,然他们的推测,还真是巧合了。   那么,“诗国”十四公就是解开“州牧、部監二十五人”的钥匙。我们不想放弃这个诱惑:只要在“诗国”十四公外再找出同类的两公来,凑成十六公,再与九州合计,就可以满足“二十五人”之数了。

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四、王莽分封制的性质和两公的下落(作成中)

  我们得再次考察王莽的分封制度了:澄清其分封制的性质,进而把缺少的两公发掘出来。   王莽始建国元年,“封牧为男,守为附城”;“改郡太守曰大尹,都尉曰太尉,县令长曰宰”。天鳳元年,制度又有变动,『漢書·王莽传中』:   莽以『周官』、 『王制』之文,置卒正、连率、大尹,职如太守;属令、属长,职如都尉……公氏作牧,侯氏卒正,伯氏连率,子氏属令,男氏属长,皆世其官,其无爵者为尹。   由此可以知道,王莽的分封制、郡县制,并不是互不相涉的两个系统,它们在很大程度上彼此重合:相当一批郡县长官,同时也是受有茅土的诸侯。始建国元年的郡级长官“大尹”,在天鳳元年被一分为三了:卒正由侯爵拥有者担任,连率由伯爵拥有者担任,无爵者则另称大尹。   公侯伯子男及附城之爵的拥有者,曾在始建国四年(公元12年)受茅土。 『漢書·王莽传中』:   诸公一同,有众万戸,土方百里。侯伯一国,众戸五千,土方七十里。子男一则,众戸二千有五百,土方五十里……今已受茅土者,公十四人,侯九十三人,伯二十一人,子百七十一人,男四百九十七人,凡七百九十六人。附城千五百一十一人。   下页列出表格,把这里提到的人数,与地皇元年根据黄帝之法而来的大司馬、大将軍、偏将軍、裨将軍、校尉的加号数量,加以比较。   下面就来加以分析。侯有93人,伯有21人,合计114人。以此推测,天下125郡中,只有11郡是由无爵的大尹来治理的。再看附城。史料虽没说以附城为县宰,但不能排除这种可能;假如王莽真的曾以附城为县宰,则2203县中,就有1511个县宰拥有着附城的爵号。那么仅侯、伯、附城的情况,已清晰显示了王莽郡县制和分封制的重合情况:王莽并不是在郡县之外,另行为侯、伯、子、男及附城划出土地建立国邑的,而是径直把大部分郡县改为国邑;形式上天下大复古,分封制已大行其道了,然而骨子里还是郡县制。这样看来,所谓侯、伯、子、男及附城,其实很像西漢加给官员的二十等爵号。   再来看“公氏作牧”,因“诗国”的存在而显得有点特殊。公国的地面有多大呢?“诸公一同,有众万戸”,“侯伯一国,众戸五千”。从戸数说“诗国”比侯伯之国大一倍,而侯、伯所任卒正、连率实即太守,因而不妨推测“诗国”约有两郡之地。两郡之地当然比州小得多了,然而王莽始建国元年有诏:“其定诸侯王之号皆称公。”“公”相当于是西漢的诸侯王,所以“诗国”虽小于州,地位却可与州比肩。居延漢简有“州牧八命黄金印’之文,(注:谢桂华、李均明、朱国zhòo@⑥编『居延漢简释文合校』,文物出版社,1987年,第470页,简号280·2。)饶宗颐、李均明先生云:“西漢之州牧佩银印,则佩黄金印者即相当三公与诸侯王,此无疑指王莽州牧印。”(注:饶宗颐、李均明:『新莽简辑证』,第133页。)这样看来,“公氏作牧”的背景是“诗国”与州平级,那么公爵拥有者应该与州牧平级,“诗国”的牧、監也应该与州牧平级。也正是为此,才会有“州牧、部監见礼如三公”的规定。   附图(略)   那么,就可以把“置州牧、部監二十五人”,与“大将軍二十五人”、“赐诸州牧号为大将軍”、“公十四人”、及“诗国十五”等记载,联系起来加以考虑了。若推断“州牧、部監二十五人”包括着州牧和“诗国”二者,这时候的惟一障碍,就是“诗国”缺少两公了。这两公就是漢国之公与周国之公,即定安公孺子婴和章平公姬党,他们不在始建国四年(公元12年)“受茅土”的“公十四人”之列。下面加以论述。   『漢書·王莽传中』始建国元年王莽策命孺子婴:“封尔为定安公,永为新室宾”,“其以平原、安德、漯阴、鬲、重丘,凡戸万,地方百里,为定安公国,与周后并,行其正朔、服色。”所谓“与周后并”,是说周与漢同为新莽之宾:“漢后定安公刘婴,位为宾。周后卫公姬党,更封为章平公,亦为宾。”漢、周及殷、夏都被列为“四代古宗”,但殷、夏由于“运转次移”而“位为恪”,其后裔只能封侯、不得如漢、周那样封公了。其时王莽还曾认定了另一些古帝王的后代,并把他们封为侯、伯、子。   既然在始建国元年,定安公已有“平原、安德、漯阴、鬲、重丘”的百里封地了,推测与之并列的“周后”章平公也是有封土的。它们都是“戸万,地方百里”,跟“诗国”的“有众万戸,土方百里”完全相同。始建国四年(公元12年)的“授诸侯茅土”,只面向本朝的宗室和臣子,所封“公十四人”中不会包括前朝“古宗”漢与周,因为漢、周二国在三年前——亦即始建国元年——已先受策命、先有封土了(“古宗”殷、夏,还有那些以古帝王后代而封侯、伯、子的人,其情况以次类推)。   前曾指出,“诗国十五”而“公十四人”,是缺少『王风』之“王”的缘故;而现在若拿“周后”章平公当『王风』,则“诗国十五”居然就一个不少,全部到齐了!相应地,“漢后”定安国既然“与周后并”,那么它也与“诗国十五”地位相类;这样的话,始建国四年时,“十四公”加定安公孺子婴、章平公姬党,公国共计十六。   十六国的国公若未就国,王朝都是“置牧立監”代为管理或辅佐監控的。前面我们说“诗国”七牧七監,现在又可以说,“诗国”共有八牧八監了,这些牧、監,应该就是“置州牧、部監二十五人”中的部監,“二十五人”即州牧9人和部監16人——当然这“部監”实兼“诗国”之部牧和部監而言,即如庸部牧、曹部監、魏部牧、邠部監。那么『漢書·王莽传』“置州牧、部監二十五人,见礼如三公;監位上大夫,各主五郡”的记载,其实并无错误,最多不过是“監位上大夫”,若改云“郡監位上大夫”就更好一些而已。   史書中的“州牧部監”或漢简中的“州部牧監”(注:『居延新简』,文物出版社,1990年,第369页,E.P.T.59·155A。)的提法,它们确指什么,现在可以从九州牧、五部監及“诗国”的牧、監加以考虑了。又, 『屯戍丛残考释』簿書类第四简:“牧、監之部,其勉于考绩。”王国维先生指出这条简文在始建国四年(公元12年)五月,且云:“牧、監皆莽官。『莽传』天鳳元年(公元14年)七月置州牧、部監二十五人,今始建国四年诏書已有牧、監,『莽传』系之天鳳,殆失之矣。”(注:罗振玉、王国维:『流沙坠简』,中华書局,1993年,第104-105页。)然而这个矛盾,是因王国维未能区分部監、郡監造成的;若把二者区别开来的话,矛盾便不复存在。“牧、監之部”一语中的“監”,无论是五部之監也好,还是“诗国”之監也好,都出现于始建国四年二月;那么这年五月的诏書中有“牧、監之部”之辞,就很自然了。天鳳元年诏中的“置州牧、部監……”的“置”并非始置,不过是总叙之词而已;其时所始新置者,乃郡監25人。   讨论至此,新莽州、部、牧、監问题上的一向混乱,我们已可尝试厘清如下:   1.始建国四年(公元12年)二月:改行九州,同时设東南西北中五部監,各監25郡,2-3州;   2.始建国四年二月:授诸侯茅土,其时已建立了“诗国十五”制度,加上“漢后”定安国共16个公国,半数置牧半数立監,牧、監“见礼如三公”,同于州牧;   3.天鳳元年(公元14年)四月:每5郡置一郡監,位上大夫,共25郡監;   4.地皇元年(公元20年):对東南西北中五部監,加以大司馬之号;对9位州牧与16位国公,加以大将軍之号;   5.地皇二年正月:又为州牧及“诗国”的部牧、部監设置副弐,秩元士。   新莽的州、部、牧、監制度的既往纠葛,由此而大为条理化了。若有学者打算讨论王莽地方行政及監察制度的话,应把上述结论纳入视野。比起西漢十三州部的地方監察体制来,王莽的地方控制显然大为强化与复杂化了。同时下面一点也再度呈现在人们面前:王莽在规划制度时,除行政考虑和集权考虑之外,还处心积虑地使之与天地人的宇宙秩序相参,与经書纬書的权威记载相合,并力求达到形式上的整齐和谐,使之具有象征性和神圣性。中国古代的所谓“制度文明”特别地发达,在如何建构制度上也发展出了形形色色的政治理念,它们各自有着大不相同的出发点,有理性的、现实主义的,也有空想性、象征性和宗教性的。王莽的制度规划,就是传统“制度文明”一种内在倾向性的极端表现。      字库未存字注释:   @①原字礻加右   @②原字分加阝   @③原字上加支   @④原字纟加衰   @⑤原字髦去毛加矛   @⑥原字火加召   @⑦原字牲去生加氐   @⑧原字梦去夕加今      原载『中国社会科学』2004第6 期

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