孫呉 > 小説『魯粛伝』の作成準備

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1.投資対象としての官位

このサイトを、「いつか書きたい『三国志』」と名づけてから、もう11年が経ちました。
三国志の小説を書こうといいつつ、歴史資料の読解や考察をしたり、イフ小説を書いたり、論文を書いたり、独学ガイドを作ったり……、本編に手を付けていないわけですが……、本編小説の準備というわけではありませんが、特定の人物を主人公にした小説を、コンスタントに作っていきたいと思っています。
原稿用紙1000枚なら、年に1冊。500枚なら、年に2冊ぐらいのイメージ。

その第一号は、魯粛にしたい。
なかでも、魯粛の「投資家」としての側面に着目し、魯粛がどのように時代を読んでいたか、細かく描いてみたいのです。

投資家の魯粛について、インターネットで検索すると、周瑜に蔵をプレゼントしたエピソードが出てくる。周瑜に蔵をプレゼントした代わりに、将来、孫呉での高い地位というリターンを得たと。

かんたんにヒットするので、リンクは貼りません。

これならば、ぼくが深める余地があるなと思ったので、企画に着手します。

魯粛の投資対象は「王朝」

魯粛を投資家として見た場合、彼が選んでいる「銘柄」は、王朝です。魯粛に、先見の明があるとしたら、その「銘柄」選びを、巧みにやったことです。
ただし、「漢王朝の復興はムリだから、江南に独立政権を建てるべき」と考え、「南朝」政権を、いち早く構想した、というのは、結果論です。
魯粛といえど、初めから、このようなビジョンには至らなかったはずです。もちろん、失敗もありました。試行錯誤のプロセスが、小説になると思います。

物語の出発点は、やはり漢王朝です。
彼より上の世代は、というか、彼と同世代の多くの人もまた、漢王朝の永続を信じて、経済的な財産や、貴重な人生の時間を、注ぎ込んできました。

孟達の父による猟官運動

最近ぼくは、『三国志』明帝紀を精読したのですが(いずれ発表されます)、明帝紀の裴松之注に、蜀の孟達の父である孟他の逸話があります。
孟他は、宦官の張譲と面会するために、全財産を献げ、破産の寸前まで行きました。バカなんでしょうか。いいえ、違います。

なぜ破産の寸前まで、財産を注ぎ込むか。漢王朝の官位という「財」が、何よりも優先して欲しかったからです。
孟他の場合、「猟官」に成功して、涼州刺史の官位を得ました。建寧三(一七〇)年、涼州刺史として、異民族と戦った記事があります。
涼州刺史の利権は、税収だけでなく、西域との交易でしょう。漢王朝の官位は、それを得るために全財産を傾けても惜しくないものでした。なぜならば、官位につけば、注ぎ込んだ財産を上回るリターンが、期待できたからです。
張譲のような宦官は、「猟官」運動を管理することで、彼自身も莫大な権勢と富を築いたはずです。

投資対象としての後漢の官位

経済においても、特定の投資対象(例えば不動産)が、利益を生むと確証され、みんなが欲しがる(買う)から、どんどん値上がりすることがあります。なぜみんなが欲しがるか。みんなが欲しがるからです。以上、終わり。
通常、このような、同義反復的(トートロジー)な説明をすると、バカにしてんのか!ってことになりますが、こと投資対象においては、この説明が真理です。
みんなが欲しがると、値上がりする。値上がりすると、みんなが欲しくなる。この循環だけです。なんの裏付けもありません。

土地は、本来は、「そこに住める」などの効能があり、買って、住んで、幸せになりましたとさ、で終わりだったはずです。
しかし、土地を持っていることで得られる利得(家賃収入など、インカムゲイン)と、土地の安く買って高く売ることによる利得(キャピタルゲイン)が注目され、投資の対象になります。また、土地に関する権利を、分割・統合したり、複雑に操作して、投資対象として加工(証券化)されていきます。

漢王朝の官職も、「任命された役割を果たして、俸給をもらう」のが本来であり、着任して、精勤して、感謝されましたとさ、で終わりだったはずです。
しかし、官職を持っていることで得られる利得や、官職を授受・斡旋することによる利得が注目され、また官職にまつわる権利が、分割・統合などにより操作され、投資対象として流通しました。
これを、政治史の言葉で語るなら、「腐敗」かも知れません。
他方、投資の目線でいうなら、官職が投資対象となったのであり、宦官が介在して「証券化」されたと言えそうです。
投資の対象となると、遅かれ早かれ、過熱します。エスカレートします。

霊帝期は、漢王朝の円熟期です。
霊帝のあと、後漢が滅びたので、霊帝の政治がダメだった、というイメージになりますが、こぞって全員が、後漢の官位を欲しがったというのは、後漢の最盛期であったことを、意味するのではないでしょうか。
みんなが官位を欲しがるから、官位にまつわる利権が肥大化し、いわゆる「腐敗」をするわけです。
知識人たちは、人脈を駆使し、財産を蕩尽し、名声を「賭金」にして、官位を求めました。官位に群がって、醜く争う様相は、歴史書を見るとウンザリします。しかし、後世の私たちをウンザリさせるほど、みなが官位に熱中し、それだけの「値段」が付いていたのです。

後漢の批判者(党人)たちだって、官職の配分をめぐって異議申し立てをしたのですから、同じフィールドのなかで、ボールを追いかけているのです。
もちろん、ゲームから降りて、隠逸として生きていく人もいました。


霊帝期は、土地のバブルと似ています。
みんなが土地を欲しがるとき、日本列島の「価値」は、暴騰しました。もはや、実態(土地の使い道)は、あまり関係なくなります。国土の「価値」が暴騰した日本は、ほかの国に比べて、繁栄していることになりました。

後漢の官位の暴落

実態を離れて、額面が暴騰したものは、なにかのキッカケで、価値が落ちます。
人間は、1万円を得る喜びよりも、1万円を失う痛みのほうを、強く感じます。こういう人間の性質によって、投資対象は、いちど価値が落ち始めると、恐慌を起こして、投げ売りされます。もっと値下がりする前に、さっさと売り抜けなければ!という、恐怖に支配された心理です。
だから、投資対象は、値上がりをするときは、コツコツですが、値下がりするときは、ドカン!と落ちます。

後漢の官位の価値が暴落したのは、黄巾の乱がキッカケでしょう。
「コーキン・ショック」です。
黄巾の乱の原因は、いろいろ言われます。
官位を利権と見なした地方長官が、税金を搾り取りすぎたから。黄巾は、後漢の儒教に対抗する理念を持っていた。政治不安になると、秘密結社や宗教のようなものが発展する……。これらの説明は、あまり関係ありません。
ショックのキッカケは、何でもいい。べつに、黄巾の乱でなくても良かったのです。
もしかしたら、後漢のとある政策転換とか、ちょっとした霊帝の発言(詔)とか、ある人物を処罰したこととか……、バブル崩壊のキッカケは、何でもいいのです。イデオロギッシュに主張されるような、農民叛乱である必然性はありません。

本題に戻ると(前置きが長くてすみません)、魯粛は、早くに父を失っています。名前すら分からない。
魯粛の父は、家業で蓄えた元手で、「猟官」運動をして、どこかの県令・県長あたりに着任した。洛陽に行って、宦官に面会を求めるとき、少年の魯粛も、付いていったことにしても良いでしょう。しかし父は、黄巾の乱で殺害された。
魯粛は、漢王朝に「全財産をベット」したが、大損をした父の様子を見た。既存の価値観に流されて、他人と同じように振る舞うだけでは、うまく生きられない時代に突入したんだな、と自覚する。
……という、小説だからできるエピソードを設けたい。

魯粛の父を、典型的な旧世代というか、後漢の平均的な人とする。後漢の永続を信じ、後漢の官位に価値を見出した人、という描き方をする。
魯粛が、人生の節目ごとに出会う人たちも、同じように、後漢の官位の資産価値を忘れられず、また、漢王朝のために投入した自分の時間・財産を忘れられず、取り戻そうとしてる、、という、典型的に投資で負けるパターンなのかも知れません。

今後の見通し

魯粛が投資対象とするのは、頼るべき盟主です。
少年時代の強烈な体験によって、漢王朝に「裏切られた」気持ちが強いから、革命にも抵抗がない。

周瑜に蔵をプレゼントしたのは、三公の家の周瑜が、いずれ王朝を興すかも知れない、という期待があったから。
袁術の官職をもらうのも(拝命を拒否したとは史料にない)、それに見切りを付けたのも、やはり、だれが発行する官位の価値に、自分自身の運命を同調させるか、という究極の選択なのです。

例えば、預金をやめて、全財産を、ある会社の株に注ぎ込むと、、自分の財産の増減は、会社と一体化する。株価が2倍になれば、自分の財産も2倍。半分になれば、半分。倒産すれば、0円になる。
これは、あまりにハイリスクだから、「分散投資」が奨励される。複数の会社の株を買いましょう。いえいえ、全財産を株に代えてはいけない。債券を持っておきましょう。預金のまま、持っておくのも、いいですねと。
しかし後漢末は、このような「分散投資」ができない環境であった。魯粛は、自分の命運(財産だけでなく、生命も)を、誰かに一点賭けしないといけない。

一時、気の迷いのように、鄭宝を頼ろうとしたのも、袁術なきあとの揚州の混乱のなかで、投資先が見えなくなったのかも知れない。

思えば、周瑜に、2つの蔵のうち、1つしか贈らなかったのは、安全策だった気もします。もしも、周瑜と命運をともにするなら、2つとも贈るべき。
「財産の半分を賭けたのだから、勇気がある」という見方が一般的ですが、しかし、半分です。全幅の信頼は、していなかったということになる。

◆劉備のこと
やがて魯粛は、孫権に「全部賭け」をしました。その後も、投資は続きます。
劉備に荊州を貸したのも、投資という行為でしょう。「劉備を曹操にぶつけると、孫権が安全」というのは、史料に説明されていることですが、それは、配当を受けとるようなもの。
「荊州を、劉備に譲ったのか、貸したのか」という議論は、ナンセンスです。「出資」なのでしょう。どういう損得勘定による「出資」なのかは、これから考えていきます。

などなど、投資家としての魯粛が、各時点で何を考えていたのか。いろいろ理屈を付けていくと、内容のある小説になるような気がします。180224

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2.魯粛と投資、魯粛とバクチ

ブックオフで『蒼天航路』の一部分を買ってきて読んだら、劉備が魯粛のことを、同盟を結ぶべき相手、発言を信じるべき相手として、ポジティブに評価して、「バクチ打ち」って言うんですよね。
べつに今回、読み直さなくても、印象的なセリフとして覚えていたんですけど。

バクチと似た言葉は、「投機」です。以下、魯粛の小説を企画するために、ちょっとモヤモヤしていることを、書いていきます。

投資とバクチ

「投資」と「投機」は、1文字を共有していて似ているし、「投資」をさげすんで、「投機だ」と評することもあると思います。
もしくは「投資」をするひとが、自分の活動の本質をついたかのように、「これはバクチだ」と言ったり。
いずれも正解だから、タチが悪いんです。

人によってというか、何を主張したいかという、それぞれの都合によって、「投資」と「投機」は、言葉が使い分けられます。
投資は、相手に金品を注ぎ込んで成長を支援する、ポジティブな活動であるとも言われます。下手すると、社会貢献かのような様相を帯びることがあります。お金を預けた相手が、成長するのを待つんですね。
一方、時間の幅を織りこまないのが、投機なのでしょうか。自分がもうけることしか、考えてない、みたいな。

……この定義は、なんか違います。
金品を供出する動機(こころざし)によって、「投資」と「投機」は、使い分けられるのでしょうか。
成長を支援する人だって、べつにお金を捨てているわけではなく、未来のリターンを期待するから、お金を出します。それは「薄汚れた」ことではなく、リターンの期待は、健全な関係を築くと思います。出資者と、被出資者とのあいだに。

「投資」した人は、口を出す権利を得ます。これが「融資」つまり、利息回収を契約に織りこんだ「金貸し」と違うところ。株主が、株主総会で議決権を持つのは、これに当たります。
「投機」した人は、口を出さないかも知れません。というか、口を出したくなるような興味を、お金を賭けた対象に向けて、持っていないのかも。

インベストメントとトレード

「投資」と「投機」のように、似て非なる(本当に「非なる」のかも不明ですが)概念に、インベストメントとトレードがあります。
トレードは、「バクチ」や「投機」と近そう?

インベストメントは、時間をかけた成長に期待している。対して、トレードは、時間をかけた成長なんて、待たないのかも知れない。
しかし、トレードにしたって、けっきょく売買の差益をねらうためには、値段が変動してもらわねばならず、けっきょく時間の概念が挟まってくるんですけど。

株の購入は、基本的に、本来的?に、「インベストメント」と観念されるけれど、日々の値の変動は必ずあり、その売買の差益を狙うなら、「トレード」がやれます。お金を注ぎ込む対象は「投資」になじむもの(株式)であるが、やっていることは「トレード」に違いない。
為替の売買は、おもに「トレード」と思いがちだけど、「この通貨発行主体の競争力の向上を見込んでいる」という言い方をすれば、「インベスト」です。

期間で分けるとしても、取引のスパンを何日(何ヶ月?何年)ぐらいに設定すれば、トレードでなく、インベストメンとである!と、言えるようになるのでしょうか。
それって、あいまいです。
成長を期待して株を買って、3年で、期待の値上がりをして、売り抜けたら、いくら動機が相手の応援であっても、それってトレードじゃないかと。3年1ヶ月目に、暴落したら、「ああ、売っとけば良かった」と後悔するのも、インベスターに許された感情でしょう。「そんなこと思うやつは、インベスターじゃない」とまでは、言われまい。

株価が暴落して、上場廃止・倒産の危機になっても、応援して株を持ち続ける(カネを引きあげない)のが、インベスターの精神ではないか!と、美談にこだわりたくなりますが、
そんな「心中」は、もはや投資家の行動ではありません。「損切りが出来ないやつ」として、投資行動としては、失敗と見なされるでしょう。
株の長期保有を前提とした(基本的に売らないとすら言う)ウォーレン・バフェットだって、株価の上昇(すなわち、株保有した自分の資産増加)を狙って、株にインベストメントするわけで、「心中せよ」と言っているのではありません。「心中するほどの覚悟で、銘柄を選べ」とは、言うかも知れませんが。

インベストメントとトレード。投資とバクチ。どうやら、区別の一般的な解(どのような場合でも当てはまる答え)を探すのは、ムリでしょう。

後漢における投資行動

魯粛が、投資でも、投機でも、バクチでも、トレードでも、インベストメントでも、何でもいいから、それのプレイヤーだとしたら、何をしているのか。
自分の手持ちの資産を、何かの形態・種類で持ち、その資産の時間の変化による価値変動に、自分の資産の価値を連動させることです。
というか、あらゆる時代において、あらゆる人は、何かの形を選ばないと、資産を持てない。魯粛は、その選択を、意識的に、かつセンス良く、行っていた。と言えるのではないでしょうか。
すなわち魯粛は、資産の形態・種類を、現状のまま、ほったらかしにしなかった。

現代では、金融資産に限定しても、預金・債券・株式など、さまざまな資産の形態があり、そのなかでも種類が多いため、「分散」投資が可能です。
しかし、市場の自由度が低いと、資産の種類・銘柄を分散できません。魯粛も含め、前近代人が生きたのは、そういう時代です。

ひとは金融資産のほかにも、さまざまな資産・資本を持っています。社会関係資本だってそうだし、文化資本だってそうです。それ以前に、健康とか生命とかも、資本です。計測の尺度は、寿命でしょう。
「体が資本」とは、よく言ったものです。
これも、前近代は、選択肢がぐっと減る。属する集団、衣食住を、自由に選べない。もしくは、選ぶためのコストが大きい。
どこに属し、衣食住をどのようにしたかによって、寿命が縮むかも知れない。しかし、不利だと思っても、生き方を変更できない、、ということは、往々にして起こります。

べつに、近現代を賛美するわけじゃないですけど、近現代に比べ、前近代の人たちは、選択の自由が少なく、また運用効率も悪い、比較的 悪条件に置かれていたと言えましょう。それゆえに、智恵を付け、魯粛のような「英雄」が登場する舞台が整っていたと、言うこともできます。
魯粛は、土地に縛られず、既存の社会制度に縛られず、生存を画策しました。
その生き方は、私たちが、「親が死んだので、実家を売り払い、東京に引っ越して就職する。家を売ったカネを、株式投資する」のとは、比べものにならない、摩擦の大きな行動でした。
だから、故郷でも反発を受け、呉に仕えてからも反発を受けました。

もっとも保守的、リスク回避的な生き方

そんなことはムリですけど、前近代、仮想的に牧歌的な理想郷を設定し、
もっとも「保守的」に振る舞うなら、国家から切断され、土地を所有して、人民を支配して、耕作だけをやることになります。
実を言うと、土地所有とか、人身支配とか、農耕も、きわめて「経済的な活動」であり、その中にも投資的な行動が含まれているため、全くの「安定的」な行動であるとは、決して言えないのですが、
中国では、王朝の交替のたびに混乱が起きるため、王朝の栄枯盛衰から、完全に隔絶して振る舞うことは、まあ「安定的」と言えましょう。リスクが嫌ならば、これを目指すことになります。山奥の桃源郷です。

桃源郷における安定。いいですよね。
日本人が、自分の資産を、円建ての預金だけで持つマインドに似ています。
多くの日本人は、「私は、投資・運用をやっていない」と言うでしょう。しかし、これは、誤りです。
銀行に預けっぱなしの人は、「日本円に投資している」という、バクチ的な行動をしているに違いない。なぜなら、「円安になったら、世界から見たら、資産的価値が下がる」という言い方はできますし、実際に価値が下がります。しかし現状、安定的で、リスク回避的な資産「運用」であるとされます。
これは、日本円という資産の種類が、たまたま安定的だから、このようになっているだけ。「自国通貨で預金のまま持つのが、最も安定的な運用」というのは、あらゆる国に当てはまるわけではない。
株式の変動が激しくなると、海外からも「リスク回避的な円買い」が観測されるように、円が世界的に見て、たまたま保守的・安定的な価値変動をする(価値変動をしにくいとされる)資産です。今のところは。
われわれが投資とか資産運用に目を向けないと、たまたま円建ての預金を持つことになるから、「資産運用に興味がない=円建て預金をする=安定的な運用をする」という図式は、ラッキーで成り立っているだけなのです。

話が逸れましたが、もしも「箱庭みたいな桃源郷」経営をすることが、もっとも「リスク回避的」な行動であれば、王朝の盛衰に思いを馳せる必要がない。超然としていれば、良いわけです。
後漢が安定しているならば、「箱庭みたいな桃源郷」を維持するよりも、在地に根づきつつ、後漢と、付かず離れずの最低限の関係だけを結ぶのが、「リスク回避的」となるでしょうか。

いやいや、後漢が繁栄すれば、後漢の支配に積極的にコミットする(官僚になる)ことが、もっとも「リスク回避的」かも知れません。日本円に積極的にコミットする(円建ての預金を持ち続ける)のが、投資行動のなかで、もっともリスク回避的であるのと同じです。
日本円の安定が、当たり前になっていると、日本円を持つことが「投資」と捉えられなくなる。同じように、後漢の繁栄・永続が当然になると、後漢の官僚になることは、「当たり前のこと」「分別ある行動」と認識され、「投資」と捉えられなくなるかも知れません。実際は、投資の一種なのに、そうは思えなくなるのです。

後漢が繁栄した時期、後漢の支配を拒否する、という行動のほうが、「リスク選好的」です。べつに、後漢に反乱して兵をあげなくとも、仕官を拒むことが、「リスク選好的」な行動になります。
せっかく日本円が安定しているのに、為替取引に「ウツツを抜かす」ように。
為替取引は、ヤクザな行動として、侮蔑の対象になるイメージがあります。円が堅実。ドルやユーロに替えるなんて、バカなバクチ……という。われわれの円建てのマインドを、後漢繁栄期の知識人のマインドを、うまく重ねることが出来そうです。マインドと言いましたが、「幻想」と言い換えてもいいかも知れません。

後漢末の混乱は、リスクを呼び込む

さて、私がしたいのは、三国志の話です。
ご存知のように、後漢の統治が弱まりますと、土地に留まって経営することが、「リスク回避的」とは言えなくなります。むしろ、土地に縛られることが「リスク選好的」な行動になってしまう。
桃源郷に、黄巾党がなだれ込んでくるかも知れない。後漢の官僚の本拠地を、黄巾が皆殺しにするかも知れない。

土地に留まるほうが、よほど「リスク選好的」。
なんだか、正反対のことを言っているようですが、これで合っています。

資産管理の心理的なコスト(どれだけ、ヤキモキ・ソワソワ・フラフラするか)の大きさと、その安全性は、一致しません。環境次第です。
変化が大きな時代は、「ヤキモキしてたほうが、結果的に安全である」ということが置きます。もしも、変化が大きな時代に、「ほったらかし」をやると、時代の潮流に吸い込まれて、自分の資産が、消滅してしまうかも知れない。
ぎゃくに、変化が小さな時代にヤキモキするのは、ワリに合わない。自爆して、資産を減らしてしまうかも知れない。「ほったらかし」が、自覚なき、達成感なき、勝ち組になったりします。
株価が上がっきたこの1年は、預金しっぱなしは、「機会損失」でした(直近は、揺れが大きくなってますけど)。しかし、株価がほとんど変化しなかった、失われた○十年のあいだは、預金しっぱなしが、もっとも賢い「投資」戦略でした。

「ヤキモキしたほうが危険で、愚かである」、「ほったらかしたほうが安全で、賢い」というのは、私たちの日常的な、平時の感覚ですけど、必ずしも正しいとは限らない。やはり、外部環境によって決まる。
というか、平時の感覚では、これが正しいんですけど、いつも平時とは限らない。

もし日本円が、価値がグラグラする通貨になってしまったら、資産の移転先をキョロキョロしている人が浮上する可能性がある。安穏として、円建ての預金をほったらかした人は、デフォルト!を食らって、一撃で沈む可能性がある。
投資信託の商品で、「ほったらかしたほうが安全」と説明するところがありますけど、あれは、変化が激しいとき、運用会社が代わりにヤキモキしてくれているから、安全(と説明されているん)です。そのために、運用会社が定めた報酬を払っているので、恩もアダもないのですが。

以上、時代背景の分析というよりは、魯粛の小説を、どういう枠組みで書こうかという、アイディア出しでした。180303

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3.投資による政権の意思表明

『三国志』明帝紀を読んでいて、三国がどのように影響しあっていたか、考えました。もちろん、明帝期には、魯粛は死んでいるわけですが、他国の情報によって揺れ動くさまは、共通だったのではないかと思います。
やや遠回りしてから、魯粛の話に戻ってきます。

230年代の君主権力の集中

はじめて通して読んだ三国志の物語、つまり、吉川英治『三国志』の第一の読後感は、「そうか、諸葛亮は勝てないのか……」という落胆でした。
でも、魏が益州(蜀)を一度も領土にできず、官僚層からの支持を失った(魏晋革命という結末が準備された)のであれば、曹操vs劉備から始まった戦いは、少なくとも劉備・諸葛亮は、引き分け以上に持ち込めたことになります。
漢がつくった儒教的当為(あるべき姿)=大一統(統一を尊ぶ)の、理念の勝利なのかも知れません。けっきょく魏も、理念に食い殺されたことになります。

『三国志』は、文帝紀・明帝紀までは、きちんと記述が充実した本紀ですが、次からは、三少帝紀として、「マキ」にかかります。
権力を確立していた魏帝である、曹丕・曹叡にすら、焦りが見られます。君主としては盤石であったが、盤石であるがゆえに、泣き所もありました。それが、曹丕・曹叡の政治です。
孫権も、呉王・皇帝として立場を固める一方で、万能ではありませんでした。

◆蒋済の警告
蒋済は明帝に、孫資・劉放を重用する危険性を警告しました。明帝が政治に「疲倦」したら、彼ら側近が増長すると。文字どおり明帝が政治に飽きて投げ出した場合の他、(史実でそうなったように)明帝が病気で判断が滞る場合も想定されていたでしょう。
明帝は「佞幸」や、中書(秘書)を使って朝政の風通しが悪化しましたが、それは君主権力集中と同義です。

『資治通鑑』は景初二年、呉の孫権の呂壱事件を載せ、魏の蒋済が明帝に孫資・劉放の重用を諫めた記事からの、明帝の危篤(による孫資・劉放の遺詔の改変)へと続きます。
たまたまですが、呉・魏の動きは同期しています。君主権力の集中により、君主の側近が強化。政策に関与し、「君側の奸」とも見なされ、君臣が対立関係へと入りました。「君側の奸」の論法は、全員了解の婉曲表現で、実は、群臣から君主への批判です。側近の彼ら(呂壱・孫資・劉放)が力を持つのは、君主の後ろ盾があり、君主の意思を実現するからです。

呉は、呂壱の賞味期限が先に切れました。魏は明帝の寿命が先に尽きました。君主の主体性が消失すると、蒋済の懸念どおり、側近が国を専断しました。これも、孫資・劉放が頭抜けて狡猾!で邪悪!というわけではなく、一般論で回収できる事件です。
曹叡・孫権が権力を集約し、側近をフル活用して、群臣と対立した。対立のときの争点が、「ゼイタクや、国内における横暴を優先して、天下統一をナオザリにしている」ということです。

政策の裏目、過剰・ちぐはぐな反応

魏の明帝の建設ラッシュに対し、「呉・蜀に滅魏のチャンスを与える」、「財政が正直シンドイ」、「漢の武帝をマネるには、状況が違い過ぎ」、「政治と軍事の本業を優先せよ」と諫言があります。
もちろん諫言を推すための修辞もあるが、実際に魏の存続を脅かすものだったのでしょう。実際、魏は転覆しました。

政策が裏目に出るのは、ある話です。
あらゆる政策は有機的に結び付いています。ひとつの政策が、あらゆる状況を動かします。メリットだけを得るのはムリです。
政策の発進者と、それを聞いた側の反応は違います(過剰反応ならまだしも、実影響と反対の不安が煽られ、混乱が生まれます)
曹叡は建設で権威を先に整え、国力宣揚を狙ったが、率直には受け入れられませんでした。

曹叡が建設を先にすれば、財政負担(=兵民の負担)が増えます。曹叡もそんなことは承知の上だったでしょう。曹叡は群臣に、投資の効果を含めて建設政策を評価してもらいたかったでしょうが、理解されませんでした。呉蜀が残る「から」建設して威信を整えるのに、呉蜀が残る「のに」なぜ投資するのかと責められる結果になりました。周囲の反応は、制御が困難です。
それどころか、「天下統一」という目標を、放置してしまったのか!と、落胆すらされたでしょう。曹叡は、まったくそんなつもりがなかったはずなのに。

諸葛亮のいた「戦場」だけを見ると、司馬懿が難敵で、勝利は困難に思えるが、曹叡の治世全体を見れば、魏にも危なっかしいようです。
曹叡の親政は、君主権力が集約した「前近代の正常」な状態でした。しかし、一人が全て決めると、副作用も拡大します。

これは、独裁=悪(民主主義はスバラシ)という議論ではありません。独裁は、つねに大きな作用・副作用を生み出します。現代でも、大国の大統領が、しかるべき手順を踏まずに、政策のアイディアをネットで拡散すると、世界が混乱しています。

曹芳以降、司馬氏が台頭した時期のほうが、総体では安定的かも知れません。
皇帝権力が動揺すると、王朝の存続には不安が生まれますが、国体というか、国家体制全体から見れば、「ひとりの思いつきで、全てが動く」ほうが、明らかに不安定です。
周囲の臆断と誤解、政策の副作用は、独裁が確立した時期のほうが、大きくなりそうです。

◆影響しあう三国
魏呉蜀は、なんとなくイメージする以上に、複雑に影響しあっていたはずです。
同盟関係、戦闘の勝敗(に連動した魏の兵の配分)しか考えたことがなかったですが。君主権力のあり方、群臣の関係、国に対する期待感や正統性なども、連動したり、逆行したり。反発・反落し。
日・米・欧の為替・株価を見てて思います。

諸葛亮の北伐は、軍事的には益州のみの兵力で、涼州・雍州を争奪し、軍事的な成果は、乏しかったかも知れません。でも、魏・呉の国家のあり方には多大な影響があったはず。曹叡の建設事業も「内政にウツツを抜かす」水準でなく、呉・蜀の国家に影響を与えたはず。
情報伝達は今日より未発達だが、要人発言でも揺れたはず。

ひとは、僅かな変化の兆候(新たな政策、詔の内容)から、未来を先取り、有利に振る舞おう(前提として、まず生き残ろう)とします。
三国の鼎立期、領土の変化は少ない。でも安定期だからこそ、微細なノイズで、過剰に群臣が反応しやすい。
三国が相互影響のもと、全て天下統一に失敗したことが分析できそうです。

赤壁の前夜の重要事項

王朝を「会社」に、豪族や知識人層を「投資家」に例え、王朝への臣従を「被雇用」や「株式購入」に準える。一族の財産=命運を、どの王朝の価値に連動させるかというゲームです。
諸葛亮は「株主」に向かって、会社(王朝)の姿勢を積極的に説明したし、明帝の建設事業も「株主」らへのアピールを狙ったもののはずです。
……魯粛の小説のアイディア構想にもどってきました。

物語で徐庶?が、赤壁の戦いで、曹操の背後には馬超がいるから、曹操政権は盤石ではないと分析しています。地理的に離れ、なんで関係ないことを言うのか…、曹操の欠点をムリに探したみたいだな、と思ってました。
でも当時、曹操政権の未来を占うのは、荊州・揚州にとって最重要です。小さな情報でも振れやすい。
『三国志』張既伝によると、この時期、張既が涼州の説得に向かいました。曹操が荊州に進むにあたり、涼州の動向も、もちろん連動していました。

張既伝は、細かい時系列・因果関係が明らかでないので、曹操が荊州に向かう前に(背後を固めるため)張既を派遣したのか、曹操が荊州に駐屯している間に(背後が動揺して)張既を派遣せざるを得なくなったのか、よく分かりません。


曹操の荊州進出は、当然、孫権・魯粛にとって大事件です。
ネットで株や債券を、低コストで売買できる今日と違って、後漢末の君主選びは、地理に制約されます。
かつて孫策が死に「上場廃止」になった富春孫氏の株が、再び上場して買われたのは、曹操との提携があったからです。200年代、孫氏は曹操の子会社としてシェアを広げた(揚州・荊州を攻めた)。のちの呉臣が孫権に従った事情はこれです。

曹操が荊州に来た後、なにを目指すのか。曹操の意図はどこにあるのか。
私たちが歴史を俯瞰しても、よく分からない。まして、当事者である魯粛たちには、曹操の思惑が分からず、不気味だっただろう。

呉の参謀の仕事

建安十三年、曹操の三公廃止(丞相就任)・孔融殺害のニュースが伝わるたび、孫権集団は揺れたはず。
袁紹の子を討伐してる最中は、既定路線で、量的な業績の拡大。孫権も「支社長」として便乗すれば、自集団の資産価値も自ずと増え、臣下たちも安心して孫権に身を預けられた。この時期、魯粛の案は価値がありませんでした。

のちに呉帝となり、孫権が「王朝の創設物語」として、事後的に思い出した(実際には、捏造した)可能性だって、疑われます。


魯粛をはじめとした呉の参謀が一番注視したのは、曹操の勝敗・声名でしょう。
今日、要人発言で為替が変動する。過剰反応→揺れ戻し、を繰り返してトレンドを形成するのと同じ。
孫権自身の権力とか支配領域は、210年代前半にあまり変動しないが、曹操の動きで、孫権の求心力が乱高下したかも知れません。

呉の参謀にとり、曹操軍の移動は、最も優先してつかむべき情報だが、そんなことは小説でも分かります。
直接の攻撃に至らずとも、「曹操が漢朝をどう扱うか」の一挙手一投足の兆候により、孫権・劉備の求心力は、激しく揺さぶられたはず。

劉備は、曹操と逆の値動きをする

曹操と逆張りという劉備の戦略(龐統)は、この前提で理解したい。
劉備にコミットすることは、「曹操の株が、下落すると予測している」という、孫権の内外に対する宣言です。孫権が、「私は、世界をこのように見ている」という姿勢を鮮明にしているのです。
単純に、「曹操のライバルである劉備に協力すると、曹操から敵視される。戦いに巻きこまれる」という、同盟の損得勘定だけではありません。
下手をすると、孫権が、曹操に対抗して政権を確立するためには、「劉備に投資する」という行動が、必要だったとさえ思えます。

やはり、「劉備に協力し、曹操に敵視されるように仕向け、独立せざるを得なくなる。親曹操派を、追いこむ」といった、同盟が作り出す成り行き、損得勘定だけではありません。政権の意思表明なのです。


孫権が劉備に投資する(領土を貸す)理由として、史料では、赤壁の貢献度の多寡でモメているが、劉備の側からは、その程度にしか見えないのでしょう。
魯粛にしてみれば、スケールが小さい。
創業期の劉備は、孫権にどんな事情があるにせよ、「功績が大きいから、領土を得るべき」という、シンプルな話をする段階に留まっています。しかし、魯粛は、もうちょっと複雑なことを考えていそう。

劉備は「曹操のベア」という投資信託の商品。ベアは、株価の値下がり。曹操が値上がりすると、劉備が値下がりする。主体性はなくても、価格に追随するように、設計されている商品のようなもの。
そのベアの値動きに、孫権の資産の一部を連動させるかという判断。軍事的に「曹操に対抗させる」効果だけでなく、孫権ファンドの運用方針を規定する。

劉備を分析するだけでは足りません。曹操の分析と、劉備の分析を、同時にする。2人は、それぞれ動くから、どちらも捉えて、投資商品としての性質を、絶えず掴まねばならない。
今回は、上で曹叡の話をしました。曹叡が親政する皇帝であったのと同じく、曹操は、皇帝ではないが、やはり、独裁者。曹操が、どちらかに振れるたびに、それは極端に捉えられ、魯粛の情勢分析を狂わせ、影響の見きわめを難しくしたはず。
魯粛のファンドマネージャーとしての仕事は、曹操の分析と、それのみならず、曹操に影響を受けた人々の分析に費やされたはず。

魯粛は、曹操という巨大な国家の動きを睨みながら、劉備に投資した。これは、魯粛が「お人好し」だったからではなく、孫権なりの戦略、意思表明を織りこんだものではないのか。という話に持って行けるように、小説を書きたいなと。
ここに書いたのは、まったく思いつきなので、分かりやすい説明でもなく、整合すらしていないですけど、練っていきます。180304

うまく例えられませんが、 まるで、ドル円の為替をにらみながら、日経平均と逆の動きをする投資信託を買っているようなもの。ドル円が下がる(円高)になると、日本の株価が下がりやすい。いや、日本の株価が下がると、円高になりやすいのか。因果関係が分からないし、どちらが主導するのかも分からない。短期的には、この予測とは逆に動くこともある。相関が崩れつつあるともいい。
アメリカの動きを見ると、円高に向かいそう(当事者が、向かわせたそう)だから、日経平均もやがてダメージを負うだろうから、日経平均が落ちると予測して、孫権の資産配分を調整しておこう、、みたいな。すみません、要検討。

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4.あらすじ案1_陳登・周瑜に賭ける

魯粛の物語は、どのように始まるか。
ムリヤリ、幼少期のエピソードを追加しないのであれば、時系列が推定できるのは、「周瑜が居巣長になったとき」に、蔵を譲ったというエピソード。それより先、父が亡くなり、少年たちを集めて、兵の訓練をしていたとか(魯粛伝)。

建安三(198)年、袁術が皇帝となった翌年、周瑜が、袁術と距離を取るために、居巣長になることを願っている。建安三年の時点で、魯粛は故郷にいた。

周瑜伝に、「袁術遣、従弟胤、代尚為太守。而瑜与尚俱還寿春。術欲以瑜為将、瑜観術終無所成、故求為居巣長、欲仮塗東帰。術聴之。遂自居巣、還呉。是歳、建安三年也」とある。


徐州は、興平元(194)年までは陶謙が治めた。魯粛が23歳のとき。曹操が陶謙を攻撃したときも、魯粛の故郷である東城は、戦場になっていない。
そのあと、呂布・劉備が徐州を支配したが、接点の記述がない。
注目したいのは、建安元(196)年、袁術軍の呉景と、呂布軍の劉備が、このあたりで戦っている。呉景が、経路にあたる東城あたりで、兵糧を現地調達しようとした可能性がある。これをどのように活かせるのかは、さておき。

最初の投資先は、陳登

『三国志』呂布伝によると、「陳登者、字元龍、在広陵有威名。又掎角呂布有功、加伏波将軍」とある。
陳登は、呂布の討伐(建安三年末に決着)の功績があって、伏波将軍となった。呂布亡きあと、徐州南部の第一の有力者である。
陳登は、ぽっと出ではない。

呂布伝 注引『先賢行状』に、「年二十五、挙孝廉、除東陽長、養耆育孤、視民如傷。是時、世荒民飢、州牧陶謙表登為典農校尉、乃巡土田之宜、尽鑿溉之利、秔稲豊積。奉使到許、太祖以登為広陵太守、令陰合衆以圖呂布。登在広陵、明審賞罰、威信宣布」とある。

近隣の下邳出身の陳登は、東陽長になった。陶謙のもと、典農校尉となり、民政に実績があった。呂布が徐州を支配すると、曹操によって広陵太守に任命され、呂布を牽制した。
物語では、下邳の城内で、父の陳珪とともに呂布を攪乱しているイメージがあるが、それでは「掎角」にならない。陳登は、広陵に駐屯し、曹操派として、下邳城の呂布に対抗していた。



陶謙が徐州を支配する前、陳登が県長を務めた東陽は、魯粛の故郷の東城に近い。呂布を牽制したときに、本拠地にした広陵も、魯粛の故郷に近い。

呂布を殺し、曹操・劉備が許都に引きあげたあと、この地域の最有力は、陳登である。魯粛が27歳のとき。
陳登が、魯粛に協力を求めてきても、おかしくない。むしろ、陳登の勢力圏なのだから、陳登と接点がないほうがおかしい。
「陳元龍、湖海之士。豪気不除」、「元龍名重天下」という、陳登の評価がある。のちに、劉備が劉表のもとで、回想したシーンに。
陳登は、許汜を客として礼遇せず、反感を買った。しかし、英雄には違いなかった。『先賢行状』によると、海賊の集団を降伏させ、江南を併呑する志を持ったという。
魯粛が、陳登の協力者として、江南平定を目指した。つまり、最初の投資先として、陳登を選んだ。という話があってもいいでしょう。

これに先立ち、劉備との接点があったという話もほしい。劉備は、軍師を求めていた。劉備が、呂布に敗れる前、徐州を巡察していても、おかしくない。陶謙から引き継いだ直後のことか。
興平元(194)年、魯粛から劉備への評価は、「リスクが高すぎるから、投資は見送り」であろう。いや、袁術の勢力圏に近すぎるから、劉備は来られないか。
諸葛亮抜きの劉備は、投資の対象にならない。諸葛亮がくっついた劉備は、投資の対象にすることができる。べつに、諸葛亮と魯粛に、劉備利用の密約があった、という描き方はしない。諸葛亮は、彼自身のために。魯粛も、彼自身のために、行動した結果、劉備との付き合い方が変わるとか。

周瑜に預けなかった蔵1つは、陳登に渡していた。蔵の中身は、空っぽであったが、周瑜にはそれを悟らせなかった。ということにしよう。
魯粛は、呂布を倒した、曹操-陳登のラインに乗っかった。というか、土地に縛られ、流動性が低ければ、陳登に従うしかない。魯粛は、陳登に会いにゆき、許汜と同じように失礼な目に遭う。天下の志を持っている陳登からすれば、魯粛は、支配対象しかないわけで。
もしかしたら魯粛は、陳登による呂布討伐のために、家財を供出させられたのかも知れない。

次の投資先は周瑜

建安三年、周瑜が来る。周瑜伝は、袁術の影響力から逃れるために、居巣長に転出した……という書き方になっていますが、それは後世の言い訳で。周瑜は、袁術の部下として、魯粛を口説きにきたと考えられる。
魯粛の故郷は、袁術の勢力圏と、陳登の勢力圏のあいだ。周瑜と、袁術の行く末について話し合ったに違いない。結果、袁術には投資できないが、周瑜になら投資してもよいという結論に至ったのかも知れない。
袁術派として、魯粛の籠絡にきた周瑜に、逆に、「同じ三公の家として、周瑜が皇帝を目指すつもりはないのか」と、誘いをかける魯粛。のちに孫権に皇帝を薦めたように、とりあえず、有望そうな人に、皇帝を打診するのは、魯粛がやっていても不思議ではない。

魯粛は、陳登の部下として、曹操にコミットしているのを、苦々しく思っている(ことにしないと、説明がつかない)。曹操の行動が、一貫していないことに、将来性のなさを感じていたのかも知れない。
曹操の敵、袁術に賭けるのは、悪くないことだった。
袁術の「重臣」である廬江周氏と繋がっておけば、未来が開けるかも知れない。

袁術から「東城長」に任命され、立場を保証される。
しかし魯粛は、さっそく袁術に「綱紀なく」未来がないことを感じ取る。故郷を、袁術の出先機関として統治するのは、危険なのです。袁術の滅亡の予兆を、故郷の誰よりも早く分析し、迅速に行動を起こしたのかも知れない。

魯粛伝 注引『呉書』によると、追ってきた州兵を、魯粛が追い返している。
だれの兵か分からないが、袁術の配下でしょう。

孫策の死=大暴落を避ける

魯粛伝によると、周瑜に随って、魯粛は「東渡」する。周瑜が孫策から期待されたのは、丹陽を平定すること。これに従軍したのでしょう。しかし、魯粛は東城に帰ってしまう。「曲阿に住み、祖母が死んだら東城に還って葬る」とあるが、祖母の死は、口実と思われる。
なにがあったか。
孫策と会ったとき、将来を託せないと思ったのでしょう。

うまく描かないと、魯粛が「節操のないやつ」に見えてしまう。デイ・トレーダーかよと。しかし、生き残ることが最大の使命である。曹操-陳登、袁術-周瑜、孫策-周瑜のあいだで、生き残らなければいけない。いちどは捨てた故郷だが、孫策には付いていけなかったのかも。
魯粛伝 注引『呉書』によると、孫策と魯粛は面会して、孫策は魯粛を「雅奇」と評価している。しかし、孫策の片思いに終わったのでしょう。

頼った勢力の滅亡は、自分の身の振り方を、極めて難しくする。孫策が、よき終わり方をしない、大暴落に巻きこまれたら死ぬ、、と魯粛は見抜いたのでしょう。
周瑜は、孫策をおおいに買っているが、危ないよと。魯粛としては、周瑜が三公の家の出身者として天下を目指すなら、協力してあげてもいいよ、と思っている。
袁術は、志は良かったが、それを実現するだけの組織を作れなかった。孫策は、無謀すぎる。周瑜は、孫策を担ぐことで、何かを実現したいようだが、魯粛としては賛同できないよと。

劉子揚が、鄭宝を頼れと勧める

建安四年、袁術が死に、後継者争いで、孫策が勝ち残った。魯粛は、「孫策が勝ち残るのか……。外したかな」と後悔したかも知れない。
投資は、後悔と反省の連続だから。
しかし、投資の格言は、「休むも相場」です。現金もまた、ポジションの1つと考える。市場が上下しても、自分の資産が上下しない。これは、有効な戦い方のひとつ。分からないときは、やらない。

魯粛は、劉子揚(劉曄)から、鄭宝を頼れとアドバイスをもらう。『三国志集解』で批判が入っているとおり、時系列が混乱している。
鄭宝が名乗りをあげたのは、孫策の生前か、死後かで。
生前だろう。
時系列を述べると……、まず袁術が死ぬ。袁術の後継者争いが起こる。鄭宝は、ポスト袁術を形成する、1つの勢力。鄭宝は、劉曄を参謀に抱えこみ、躍進を図る。しかし劉曄は、鄭宝を殺して、その勢力を劉勲に与えた。

劉曄は、のちに曹魏に仕えて、先を見据えた発言をたくさんする。歴史書においては、ほとんどが的中する。
劉曄を、魯粛の投資家の友達として、設定することができそう
劉曄の見立てでは、袁術なきあと、劉勲が最有力である。
はじめから劉曄が、「鄭宝をだまして、劉勲の勢力に合わせよう」とまでは、思わなかっただろう。劉勲は、鄭宝に強引に拉致され(そういう史料もある)、その立場から魯粛を誘った。
その劉勲は、劉曄の予想を裏切って、孫策に敗れた。

ひとから推薦された銘柄は、買っても後悔、買わなくても後悔するのです。袁術の後継者争いから、魯粛が距離を置いた。これはこれで、話としては重要。創作して、劉曄と行動をともにするとか、させてはいけない。
魯粛も、孫策を嫌っていることから、きっと、「劉勲を本命」と思っていたが、「休むも相場」を実践した。

『先賢行状』によると、孫策もしくは孫権は、匡琦もしくは匡奇で、陳登と戦っている。陳登が勝利して、孫策もしくは孫権は、兵を大幅に減らしている。
孫策伝は混乱しているが、最後の戦いの相手は、陳登である。南方を平定した孫策が、曹操-陳登を破ろうとした。
このとき、魯粛は故郷にいる。ポジションを解消して(どこの株も持たずに)、建安五年、官渡の戦い及び、孫策の最終決戦を眺めていたのかも。

孫権に仕える

建安五年は、大波乱です。曹操と袁紹のどちらが勝つのか、見きわめねばならない。もしも袁紹が勝てば、曹操-陳登に仕えたことにより、ペナルティを食らう。折しも、陳登が、寄生虫によって死ぬ。陳登を頼れなくなった。孫策を退けて、天命を使い尽くしてしまったのでしょう。
袁術が去り、鄭宝が消え、劉勲が敗れ、陳登も潰え、孫策も死んだ。

揚州の権力が空白となったとき、周瑜は、なんの後ろ盾もない孫権を担いだ。周瑜は、魯粛の家族を引き取って、曲阿に移してしまう。言わば、「人質」である。
仕方なく、孫権と会ってみた魯粛は、彼に「全部賭け」することを決断する!

生き残るためにフラフラする前半と、孫権のために策略を練る後半は、大きく区切ることができる。「楽しみ方」が違う。

孫権に仕えるまでの魯粛は……

大河ドラマでは、日本の戦国時代の弱小勢力の目線で、裏切りや生き残りを描いたりします。孫権に仕えるまでの魯粛は、まさにそれ。
土地を離れなくて済むなら、それがベスト。しかし、土地が諸勢力の取りあいになるなら、離れるしかない。もしくは、希望しない勢力に、協力するしかない。
べつに、好き好んで「狂児」を演じたのではなく、土地をめぐる抗争に巻きこまれて、投資家としての力量を、磨かなくてはならなくなったのではないか。

その力量は、孫権のために活かされていく。180306

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