両晋- > 『晋書斠注』地理志を抄訳する

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郡国の変遷(秦~前漢)

『晋書』巻十四 志四 地理上より、郡の変遷を記したところを抜粋して翻訳し、『晋書斠注』で、『晋書』の誤りを正す。
『晋書』地理志は、郡国の変遷を概括してくれているが、銭大昕『廿二史考異』によると、かなり誤りがあることが分かる。『晋書』もまた、研究書の一つと考えれば、『廿二史考異』と照らして読むことは、意義があるかと思います。

秦代における変遷

始皇帝は、天下を三十六郡に分けた。01三川、02河東、03南陽、04南郡、05九江、06鄣郡、07會稽、08潁川、09碭郡、10泗水、11薛郡、12東郡、13琅邪、14齊郡、15上谷、16漁陽、17右北平、18遼西、19遼東、20代郡、21鉅鹿、22邯鄲、23上黨、24太原、25雲中、26九原、27雁門、28上郡、29隴西、30北地、31漢中、32巴郡、33蜀郡、34黔中、35長沙という、三十五郡と、36内史とで三十六郡である。

『初学記』八 輿地志によると、郡はそれぞれ県を領し、県は万戸以上に令を置き、それ未満は長を置いた。
『廿二史考異』によると、この三十六郡のリストは、裴駰『史記集解』の説を用いたものである。
王伯厚が、秦と漢の郡国の対応関係を示す。01三川は河内・河南の両郡である。06鄣郡は、丹陽郡である。09碭郡は、梁国である。10泗水は、沛郡である。11薛郡は、魯国である。26九原は、九原郡である。34黔中は武陵郡である。『後漢書』南蛮伝によると、秦昭王が黔中郡を置き、漢高帝が武陵に改めたという。
(『晋書』を批判して)鄣郡は、秦が置いたのでなく、漢初に置かれたものである。『漢書』高帝紀 下 六年に、もと東陽・鄣郡・呉郡の五十三県を以て劉賈を荊王としたとあり、鄣郡は漢初に置かれたものと分かる。

南方を平定し、37閩中、38南海、39桂林、40象郡を置いて、四十郡となり、郡には守(定員一名)を置いた。

『初学記』八 輿地志によると、合わせて四十郡あり、郡には守一名と丞一名と両尉を置いた……。
『廿二史考異』十九によると、『漢書』地理志に、秦の京師を内史とし、天下を三十六郡に分けたとあるから、内史を三十六郡に含めない。『漢書』地理志によると、秦が置いた郡は三十三であり、南海の三郡を合わせて三十六郡となった。閩中は、漢武帝が置いたから、これに含めない。『晋書』は、鄣郡・黔中を、秦が置いたと見なし、内史と合わせて三十六郡とし、閩中・南海の諸郡を合わせて四十とするが、『漢書』と異なる。
『類聚苗恭』(『北堂書鈔』・『太平御覧』に引く『黄恭』に同じ)十四州記によると、始皇帝二十六年、五等爵を廃して郡県の官を立てた。公国を大郡とし、侯伯を小郡とした。大郡は「守」を置き、小郡は「尉」と言った……。


前漢の高帝~景帝まで

漢初に、内史を三部とし、さらに郡国二十三を置いた。01桂陽、02江夏、03豫章、04河內、05魏郡、06東海、07楚國、08平原、09梁國、10定襄、11泰山、12汝南、13淮陽、14千乘、15東萊、16燕國、17清河、18信都、19常山、20中山、21渤海、22廣漢、23涿郡の、合わせて二十三郡である。内史の三部は、河上・渭南・中地である。
地理志によると、高祖は二十六郡を増やし、武帝が河上・渭南・中地を、京兆・馮翊・扶風に改め、これを三輔とした。

『廿二史考異』十九によると、内史を分けた三部と、増設した二十三郡を合わせ、「高祖が二十六郡を増やす」に対応する。しかし『漢書』は、文帝・景帝が六郡ずつ増やしたとあり、数が合わない。『漢書』地理志によると、09梁国は秦代の碭郡であり、高帝が増設していない。18信都国もまた、高帝が置いていない。河上・渭南・中地は、高帝が設置したが、すぐに廃されており、実質は武帝が初めて置いたのである。
銭坫『新斠注地理志』目録叙によると、河内はもとの殷国であり、項羽本紀に司馬卬を殷王としたとある。河内は朝歌を都とする。高帝はもとの名を踏まえ、三川を河南と改めたのと同じである。趙・荊は、呉と同じく、分けて置いたのではない。地理志は、二十六を増設したというが、(二十六の数に入っていない)沛・武陵の二郡もまた、高帝が置いたとあり、荊王・淮南王も、高帝が置いた明記されており、二十三の数と合わない。


文帝は、九郡を増設した。01廣平、02城陽、03淄川、04濟南、05膠西、06膠東、07河間、08廬江、09衡山である。武帝は、09衡山を六安と改めた。

『廿二史考異』十九によると、広平は、文帝が置いたのでは無く、武帝の初に置かれた。王温舒が広平都尉に任命されているのが、その証である。のちに平干国となった。
文帝が建国した九は(正しくは)済北である。武帝のとき、済北は泰山郡・膠西国に編入され、宣帝のとき高密と改められた。
畢沅『晋地理志新補正』によると、『漢書』地理志は文帝が六郡を増やしたというが、根拠が分からない。『新斠注地理志』目録叙によると、広平は、武帝の征和二年、初めて置かれ、平干国となった。哀帝の建平三年、広平国となった。文帝がこの国を置いたのではない。


景帝は、四郡を加えた。01濟北、02濟陰、03山陽、04北海である。宣帝は、濟北を東平と改めた。

『廿二史考異』十九によると、景帝が立てた九国は、01済川・済東・03山陽・済陰・江都・中山・広川・清河・常山である。景帝が置いた一郡は、北海である。中山・清河・常山は、すべて高帝が置いた郡である(景帝はこれを国とした)。済川はのちに廃されたから、ゆえに『漢書』地理志は、景帝が六を増やしたとする。江都・広川は挙げモレている。済東を誤って01済北に作っており、済北は文帝が置いたことを分かっていない。済東国は、除いて大河郡となったが、宣帝がこれを東平国とした。『晋書』に、済北を東平国に改めたとあるが、誤りである。広川は信都であるが、信都国は元帝・哀帝の世に立てられた。地理志に高帝のときに、すでに(信都が)あったとするのも、誤りである。


前漢の武帝~王莽

武帝は、十七を置いた。南方を開拓し、01南海、02蒼梧、03鬱林、04合浦、05交阯、06九真、07日南、08珠崖、09儋耳の九郡を置いた。西南を開拓し、10牂柯、11越巂、12沈黎、13汶山、14犍為、15益州の六郡を置いた。西方に、16武都郡を置き、また17零陵郡を分けて、合わせて十七郡である。
辺境を開拓し、さらに十四郡を置いた。01弘農、02臨淮、03西河、04朔方、05酒泉、06陳留、07安定、08天水、09玄菟、10樂浪、11廣陵、12敦煌、13武威、14張掖である。

『廿二史考異』十九によると、広陵は、景帝が置いた江都国のことであり、武帝が置いたのでは内。武帝は三国を立てた。平干(広平のこと)・真定・泗水である。地理志は、三国を書きモレている。
『晋地理志新補正』によると、『漢書』地理志に、武帝が二十八郡を置いたとあるが、沈黎・汶山の二郡は、すぐに廃された。広陵はもとは江都国であるから、数に入っていない。『漢書』地理志によって補正すると、元封三年、挑戦を開いて、臨屯・真番を置いたが、ここに載っていない。


昭帝は、一つだけ、金城を増やした。
平帝の元始二年までに、新たに置いた郡国は七十一で、秦代の四十と合わせ、百十一となった。

『初学記』八 輿地志によると、平帝期までに、新たに置かれた郡国は六十七で、秦代に置かれた三十六と合わせて、百三である。『通典』は、これに基づき百三とする。
『廿二史考異』十九によると、『漢書』が載せる郡国は百三であり、この百十一というのは誤りである。01珠崖・02儋耳・03沈黎・04汶山の四郡は、のちに廃された。05南海・06鬱林・07日南は、秦代の「南海三郡」であり、08閩中郡は漢代にまだ置かれていない。王伯厚によると、この八群を除けば、『漢書』の百三とあう。
内史を分けて三輔としたが、秦から増えたのは(三つでなく)二つである。梁国は、秦代の碭郡であり、重複してはいけない。武帝が置いた、真定・泗水は、遺して数えている。秦代の泗水郡は、漢代の沛郡と改められたが、漢代の泗水国は東海国を分けて設置されており、同一の地ではない。


雍州を涼州、梁州を益州とし、徐州を置き、南に交阯を置き、北に朔方を置き、十三部とした。01涼、02益、03荊、04揚、05青、06豫、07兗、08徐、09幽、10并、11冀の十一州と、12交阯、13朔方の二刺史で、あわせて十三部である。

『晋地理志新補正』によると、顔師古は、武帝が朔方郡を置き、別に刺史に監させたから、十三部には含めないと。『通典』十三 部は、司隷を入れて朔方を入れておらず、『晋書』の誤りである。

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郡国の変遷(後漢)

光武帝~章帝

光武帝は、八つを省いた。01城陽、02淄川、03高密、04膠東、05六安、06真定、07泗水、08廣陽である。

『廿二史考異』十九によると、『後漢書』光武帝紀・『続漢書』郡国志によると、光武帝が省いたのは十である。河間・広平の二国がモレている。河間・広平は廃したが復されたから、省いた数に入れなかったかも知れない。

建武十一年、州牧を省いて、刺史に戻して、十三人に一州ずつを管轄させた。

『晋地理志新補正』によると、光武帝は洛陽を都とし、漢中にふたたび雍州を置いたが、のちに廃止した。


明帝は、永昌を置いた。章帝は、任城・吳郡を置いた。

『廿二史考異』十九によると、会稽を分けて呉郡を置いたのは、順帝期である。ここで章帝とするのは、『続漢書』の文に依ったもので、誤りである。
章帝期、任城の外固に、阜陵国があったが、モレている。
『晋書』地理志の揚州篇で、順帝が会稽を分けて呉郡を置いたとあり、ここと矛盾する。『晋地理志新補正』によると、広陽郡もまた明帝が復した。
章帝期に置かれたのは、任城・西平であり、和帝が西平を合わせ、汝南に入れた。ここでは、章帝が二郡を置いたとするが、任城・西平とすべき(『晋書』から、順帝期に立てられた呉郡を除き、代わりに和帝期に合併された西平を含めるべき)である。


和帝~安帝

和帝・順帝は、改名と新設を九つやった。和帝は濟北・廣陽を置き、順帝は淮陽を陳と改め、楚を彭城と改め、濟東を東平と改め、臨淮を下邳と改め、千乘を六安と改め、信都を安平と改め、天水を漢陽とした。

『廿二史考異』十九によると、和帝が置いたのは、ほかに河間国があるが、『晋書』はモレている。臨淮を下邳と改め、天水を漢陽と改めたのは、明帝である。淮陽を陳と改め、楚を彭城と改め、千乗を楽安としたのは、和帝である。明帝は、信都を楽成と改め、さらに安帝が(楽成を)安平と改めた。東平は、西京(前漢)の九国である。『晋書』が順帝が改めたとするところは、誤りがひどい。
『晋地理志新補正』によると、広陽郡は、明帝の永平八年に復され、和帝が置いていない。下邳・安平・漢陽は、いずれも明帝のときに改められた。
『華陽国志』によると、汶江道は、安帝の延光三年、復た立てられた。『晋書』の安帝の記載にモレがある。


朔方刺史をはぶいて、司隸に合わせ、十三部とした。前漢と異なるのは、司隸校尉部(郡の治は河南)、朔方(并部に従属する)。郡国は百八であり、前漢から八を省略し、五を分置し、七を改称して、旧来のままは九十六であり、前漢より三つ少ない。

『廿二史考異』十九によると、前漢の郡国は百三であり、光武帝から順帝まで、減少したのは八である。真定・城陽・泗水・淄川・高密・膠東・六安・広平である。
省いて復た置かれたのは、二つで、河間・広陽である。
分置したのは、四つで、永昌・任城・済北・呉郡である。
旧名を改めたのは、六である。ゆえに旧名のままは、八十九である。また郡なみの属国は六つであり、広漢属国(のちに陰平郡となる)・蜀郡属国(のちに漢嘉郡)・犍為属国(のちに朱提郡)・居延属国(のちに西海郡)・遼東属国(のちに昌黎郡)・張掖属国(のちに見えず?)である。
ゆえに『続漢書』郡国志は百五としており、『晋書』は誤りである。


桓帝・霊帝・曹操

桓帝・霊帝のとき、六郡を増やした。桓帝は、01高陽、02高涼、03博陵を増やし、霊帝は、04南安、05鄱陽、06廬陵を増やした。

『廿二史考異』十九によると、博陵郡は、桓帝の延熹元年、中山を分けて置いたと、本紀に見える。霊帝の中平五年、漢陽を分けて南安郡を置いたと、劉昭注引『秦州記』に見え、この他に郡が置かれなかった証である。劉昭注『続漢志』によると、興平二年、孫策が豫章を分けて廬陵郡を立てた。建安十五年、孫権が豫章を分けて鄱陽郡を立てた。二十五年、合浦を分けて高梁郡を立てた(もとは高涼県)。いずれも、献帝期にことである。しかし、高陽国は、晋の泰始元年に置かれた(本紀に見ゆ)。これらを、桓帝・霊帝の頃とするのは、誤りである。
『後漢書』西南夷伝によると、霊帝のとき、蜀郡属国を漢嘉郡とし、蜀郡北部を汶山郡とした(劉昭は安帝の延光三年に置いたとする)。霊帝期のことでは、漢嘉郡・汶山郡のことが、『晋書』にモレている。


曹操は、十二郡を置いた。01新興、02樂平、03西平、04新平、05略陽、06陰平、07帶方、08譙、09樂陵、10章武、11南郷、12襄陽である。七を省いた。01上郡、02朔方、03五原、04雲中、05定襄、06漁陽、07廬江である。

『廿二史考異』十九によると、01新興は、雲中・定襄・五原・朔方を省いて置いた。02楽平は、上党の地を割いた。03西平は、金城の地を割いた。04新平は、安定・右扶風の地を割いた。05略陽は、漢陽の地を割いた。略陽は、もとは広魏といったが、晋代に改称された。06陰平は、広漢属国である。07帯方は、楽浪の地を割いた。08譙郡は、沛郡の地を割いた。09楽陵は、平原の地を割いた。10章武は、勃海・河間の地を割いた。11南郷は、南陽の地を割いた。12襄陽は、南郡の地を割いた。
新平郡は、献帝の初平元年に置かれたが、この時点で曹操は帯方郡を得ておらず、公孫度が置いたのであり、魏は関わっていない。献帝の初平四年、漢陽を分けて永陽郡を置き、興平二年、西海郡を置き、建安三年、城陽郡を置いたが、『郡志』はモレている。
この地理志では、西平・新平の二郡は、漢代に置いたとするが、曹操の執政期なので、魏が置いたとしてもよい。
楽平・陰平・性分の三郡は、この地理志で、晋代に置かれたとあるが、誤りである。
『晋地理志新補正』によると、曹操が関中を分けて漢興郡を置いたとし、裴松之注『献帝起居注』によると、初平四年十二月、漢陽を分けて永陽郡としたが、『魏志』建安十九年、安東・永陽郡を省いたという。
『魏氏春秋』によると、初平三年、琅邪・東海を分けて、城陽郡・新城・昌慮郡を分け、建安十一年、昌慮を省き、東海に合わせたという。
譙周『巴記』によると、初平六年(?) 巴郡・安漢を分けて、永寧郡をつくり、建安六年、永寧を巴東に改めたという。
『袁崧書』によると、建安二十年、復た漢寧郡を置き、建安二十一年、復た漢寧郡を漢中郡とし(編入し)た。漢中の安陽・西城(県)を分けて、西城郡をつくり、錫県・城陽を分けて上庸郡をつくり、都尉を置いたとする。
『郡国志』は、献帝が張掖郡を分けて西郡を置き、張掖・居延属国に、献帝末に立てて西海郡としたとするが、『晋書』地理志を見ると、西海郡は献帝の興平二年に置かれたことになる。武威太守の張雅が、設置を申請したのが興平期で、設置されたのが建安末(献帝末)であろう。
『元和志』によると、後漢末に房陵県を房陵郡としたという。
『漢官儀』によると、荊州八郡に、章陵郡があり、『魏志』によると、曹操が南征したとき趙儼を章陵太守に任じているから、章陵郡は、建安期に設置されたのであろう。
『三国志』何夔伝によると、長広太守となっている。長広郡も、建安期に置かれたのであろう。
『晋書』地理志 荊州に、曹操が枝江以西を分けて、臨江郡を置いたとある。ここに記載がないが、曹操が置いたものだろう。
『続漢書』注引『献帝起居注』によると、中平六年、扶風都尉を省いて漢安郡を置いたとある。曹操が執政する前であるが、献帝期の出来事は、すべて曹操の処置と書かれる。
北の話。
労格『校勘記』によると、『三国志』明帝紀 青龍三年正月己亥、復た朔方郡を置いたとある。これは、魏が朔方郡をふたたび設置したのである。景初二年六月、漁陽の狐奴県を省いて、安楽県を置いたとする(『安楽志』によると燕国に属す)。
『劉靖碑』によると、東は漁陽の潞県に尽きるという(『水経注』によると潞県は燕国に属す)。
魏收『地形志』によると、漁陽郡には、雍奴・潞県の二県があり、晋代は燕国に属した。のちに、無終・土垠・徐無の三県は、晋代に右北平に属した。
『晋書』張華伝によると、父の張平は、魏の漁陽郡守となった。清恵亭侯の京伝(?)によると、漁陽郡をその封国に加えた。これは、魏がのちに漁陽郡を置き、晋初に燕国に編入したことを意味する。
また『地形志』によると、漁陽は晋代に罷め、のちに復したと。石勒載記によると、趙国の二十四郡の一つに漁陽郡がある。漁陽郡は、ほどなく郡になった。
『宋書』武帝紀によると、祖先は魏の定襄太守であった。これは、魏が定襄郡を置いた証拠であるが、『晋書』地理志の幽州・并州は、定襄郡を載せず、モレである。
南の話。
『晋書』地理志 揚州篇に、廬江郡は漢が置いたといい、魏が省いたと言わない。『宋志』・『通典』も同じ。『三国志』武帝紀は、廬江郡をを省いたと言わない。漢末において、廬江太守になったのは、建安四年に劉勲、五年に李術、十九年に朱光がいる。さらに劉靖は、黄初期に廬江太守となっている。曹操は廬江郡を省いたことはない。『晋書』地理志が、「曹操が廬江を省いた」とするのは、誤りである。

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郡国の変遷(三国~西晋)

曹魏

文帝が七郡を置いた。01朝歌・02陽平・03弋陽・04魏興・05新城・06義陽・

義陽:據下「武帝增置」之文及「義陽郡」下之文,義陽郡又置于晉武帝太康時。/義陽は、下で晋武帝が置いたとある。義陽郡は、晋武帝の太康期にも置かれたのである。

07安豐の七つである。

『廿二史考異』によると、朝歌はもとは河内郡である(晋代に汲郡と改められた)。
陽平は、もとは東郡の地である。建安期、魏郡を広げるために編入され、受禅後に魏郡東部を陽平とし、西部を広平としたから、数えられていない。広平は、『晋書』地理志からモレている。
弋陽は、江夏・汝南を割いた。魏興・新城は、どちらも漢中を割いた。義陽は南陽の地を割いた(漢末の章陵県である)。安豊は、もと廬江の地である。
『魏志』によると、田豫は弋陽太守となるが、曹操の生前であり、建安期に弋陽郡はあった。劉靖は黄初期に廬江太守となっており、廬江郡も設置されていた。
『晋地理志新補正』によると、『水経注』に、曹丕が西城を魏興郡を改め、治所をもとの西城県の故城としたという。また房陵・上庸・西城を合わせて、西城郡を立てたという。
義陽は、『宋志』によると、曹丕が立てて後に省かれた。晋武帝が再び立てたから、『晋書』地理志は、荊州篇に載せている。
また『晋書』地理志は、平呉してから、南陽を分けて義陽郡を立てたとある。『通典』によると、魏は南陽を分けて義陽郡を立てたとある。『晋書』『宋書』と異なる。銭大昕『廿二史考異』では、この三郡に言及していない。

明及・少帝は、二郡を増やした。明帝は上庸、少帝は平陽である。

『通典』によると、明帝期までに六郡を増やした。公孫度を平定して、遼西・遼東・帯方・玄菟(元菟)・楽浪を得た。さらに上庸一郡を置いた。少帝は、平陽一郡を置いた。
『廿二史考異』十五によると、徐邈伝に、「文帝が践阼すると、譙相、平陽・安平太守を歴任した」とある。『晋書』によると、平陽郡は魏の少帝が置いたとするが、徐邈伝のように文帝期から設置されていた。
『廿二史考異』十九によると、蜀は、西城・房陵・上庸の三郡を置いたが、曹丕がこれを新城郡に合わせ、降将の孟達を太守とした。明帝が孟達を殺すと、その地を上庸郡・碭郡としたが、碭郡はすぐに廃された。ゆえに『晋書』はこれに触れない。
平陽は、河東を割いて置いた。『晋書』は魏が置いたとする。
ほかに、広平・上庸・汝陰(魏が置いて後に廃す)・昌黎(漢の遼東属国)の四郡がある。
『水経』沔水注によると、新城郡は、もとの漢中の房陵県である。漢末に房陵郡として、曹丕が房陵・上庸・西城を合わせ、西城郡とした。ここから、曹丕のときすでに上庸郡があり、明帝が増やしたのでないと分かる。
『華陽国志』によると、漢末に上庸郡となり、黄初期に上庸郡を省き、新城に併合されたという。孟達を誅した後、また郡に戻った。省いて復た置いたのは、どちらも文帝期である。


漢代の郡のうち、(魏が)領有したのは、五十四である。

『廿二史考異』十九によると、『続漢書』が載せる郡国は百五であり、蜀は十一を得て、五は十八を得て、残りの七十六は魏が得た。曹操がその七を省いたから、魏が得たのは六十九である。漢の司隷部の01河南・02河内・03河東・04弘農(恒農)・05京兆・06馮翊・07扶風と、豫州の08潁川・09汝南・10梁国・11沛国・12陳国・13魯国、冀州の14魏郡・15鉅鹿・16常山・17中山・18安平・19河間・20清河・21趙国・22勃海、兗州の23陳留・24東郡・25東平・26任城・27泰山・28済北・29山陽・30済陰、徐州の31東海・32琅邪・33彭城・34下邳・35広陵、青州の36済南・37平原・38楽安・39北海・40東莱・41斉国、荊州の42南陽、揚州の43九江、并州の44上党・45太原・46西河・47雁門、涼州の48隴西・49漢陽(天水)・50武都・51金城・52安定・53北地・54武威・55張掖・56酒泉・57敦煌・58張掖属国・59居延属国、幽州の60涿郡・61広陽・62代郡・63上谷・64右北平・65遼西・66遼東・67玄菟(元菟)・68楽浪・69昌黎(遼東属国)であり、魏が領有したのは、五十四に留まらない。


蜀漢

劉備は建安期に、九郡を置いた。01巴東、02巴西、03梓潼、04江陽、05汶山、06漢嘉、07朱提、08宕渠、09涪陵である。

『通典』は、宕渠を雲南につくり、ほか八郡は同じ。
『廿二史考異』十九によると、01巴東・02巴西は、どちらも巴郡を割いて置かれた。04江陽は、もとは犍為の枝江都尉である。この三郡は、いずれも劉璋期に置かれた。05汶山は、漢武帝が置いて後に廃され、霊帝が復た立てた。06漢嘉は、蜀郡属国であり、これも霊帝が立てており、劉備が初めて立てたのでない。
07朱提は、犍為属国であり、犍為南都とも称された(『華陽国志』に見ゆ)。09涪陵は、はじめ巴東属国といい、宕渠とともに巴郡の地を割いて置かれた。03梓潼は、広漢の地を割いた。
『晋地理志新補正』は、『水経注』によると、建安十八年、劉璋が04江陽郡を立てたが、『晋書』地理志では、劉備の章武元年に初めて犍為を分けて立てたことになっており、『晋書』の誤りである。09涪陵郡は、劉璋が置いたが、『華陽国志』三もまた、江陽郡は、建安十八年に置いたとあり、『晋書』地理志の序では建安六年に立てたとする。涪陵郡は、これとも記述が異なっている。


劉禅は、二郡を置いた。01雲南、03興古である。

『廿二史考異』十九によると、01雲南郡は建寧・永昌を分けて置かれた。02興古は、建寧・牂牁を分けて置かれた。どちらも建興三年に置かれた。建寧郡は、漢の益州郡である。
『晋書』地理志によると、劉禅は広漢属国を改めて陰平郡とし(地理志 益州篇に見ゆ)、この陰平郡は、曹操が置いたものだから、数に入れない。また『華陽国志』によると、劉氏は延熙期に、東広漢(咸煕初に省かれた)および南広郡を置いた。『晋書』地理志は、東広漢・南広郡に言及がない。


蜀は、漢代の郡の十一を領有した。。

『廿二史考異』十九によると、01巴郡・02蜀郡・03漢中・04広漢・05犍為・06牂牁・07越嶲・08益州・09永昌および10蜀郡属国・11犍為属国である。


孫呉

孫権は、五郡を置いた。01臨賀、02武昌、03珠崖、04新安、05廬陵南部である。

『廿二史考異』十九によると、臨賀は、01蒼梧の地を割いた。02武昌は、江夏の地を割いた。04新安は、丹陽の地を割いた(もとの名を「新都」?といい、晋初に改めた)。05廬陵南部は、晋の南康郡である。
03珠崖は、漢の武帝が珠崖・儋耳の二郡を置き、元帝のときに罷めた。孫氏が再び郡を置いたが、陳寿『三国志』に見えない。ただ、陸凱伝の赤烏期、儋耳太守に任命されている。意味は、珠崖・儋耳を合わせて、一郡としたのか(孫権はかつて合浦を改めて珠官郡としており、孫亮のとき旧名に戻された。この珠官は、珠崖を合わせたもの)。
廬陵・鄱陽・高涼の三郡もまた、孫氏が置いたが、『晋書』地理志は、誤って桓帝・霊帝期に置いたとするため、言及がない。
孫権はかつて西陵郡を置き、甘寧を太守とした。彭沢郡を置いて、呂範を太守とした。東安郡を置き、全琮を太守とした。いずれもすぐ省かれた。
『晋地理志新補正』によると、『魏氏春秋』の建安二十四年、呉は巫県・秭帰を分けて、固陵郡を置いたという。


少帝・景帝は、四郡ずつを置いた。少帝(孫亮)は、01臨川、02臨海、03衡陽、04湘東である。景帝(孫休)は、05天門、06建安、07建平、08合浦北部を置いた。

『廿二史考異』十九によると、01臨川は、豫章東部である。02臨海郡は、会稽東部である。03衡陽は、長沙西部である。04湘東は、長沙東部である。06建安は、会稽南部である。05天門は、武陵の地を割いた。07建平は、宜都の地を割いた。
『呉録』によると、孫休の永安三年、合浦を分けて北部尉を立て、平山・興道・寧浦の三県を領した。『晋書』地理志は、寧浦郡は呉が置いたとし、この08合浦北部のことである(『広州記』によると、建安二十三年、呉は鬱林郡を分けて、寧浦郡を立て、治所は平山県であったとし、『呉録』と異なる)。

歸命侯(孫晧)も、十二郡を置いた。01始安、02始興、03邵陵、04安成、05新昌、06武平、07九德、08吳興、09東陽、10桂林、11滎陽、12宜都である。

『廿二史考異』十九によると、01始安は、零陵南部である。02始興は、桂陽南部である。03邵陵は、零陵北部である。04安成は、長沙・豫章・廬陵の地を割いて置かれた。05新昌は、交阯の地を割いた。07九徳は、九真の地を割いた。08呉興は、呉郡・丹陽の地を割いた。09東陽は、会稽の地を割いた。10桂林は、鬱林の地を割いた。
06武平は、扶厳の地である。12宜都は、もとは劉備が南郡を分けて置いて、張飛・孟達・樊友が、相継いで太守となった。建安二十四年、呉に入ったが、孫権期であり、孫晧が置いたのではない。
11栄陽は、呉の領土ではなく、畢中丞沅(?)は、営陽の誤りとする。しかし『晋書』地理志は、東晋の穆帝が零陵を分けて営陽郡を立てたとあり、『宋書』も東晋が零陵を分けて営陽を置いたとし、孫晧が置いたのではない。
『晋地理志新補正』によると、蜀は南郡を分けて宜都を立てたが、劉備の没後、宜都は呉に属したので、孫晧が置いたのでなく、『晋書』地理志の誤りとする。張勃『呉録』もまた、劉備が立てたという。


呉は、漢代の郡のうち、十八を領有した。

『廿二史考異』十九によると、01南郡・02江夏・03零陵・04桂陽・05武陵・06長沙・07丹陽・08会稽・09呉郡・10豫章・11南海・12蒼梧・13鬱林・14合浦・15交阯・16九真・17日南の十七郡しか分からず、あと一郡は未詳である。


西晋初

晉武帝の太康元年、孫氏を平定し、郡國二十三を増設した。01滎陽、02上洛、03頓丘、04臨淮、05東莞、06襄城、07汝陰、08長廣、09廣甯、10昌黎、11新野、12隨郡、13陰平、14義陽、15毗陵、16宣城、17南康、18晉安、19寧浦、20始平、21略陽、22樂平、23南平である。

『廿二史考異』十九によると、01滎陽は河南の地を割いて、漢末の滎陽都尉である。02上洛は、京兆の地を割いた。03頓丘は、東郡の地を割いた。04臨淮は、下邳の地を割いた。05東莞は、琅邪の地を割いた。06襄城は、潁川の地を割いた。07汝陰は汝南の地を割いた。08長広は、東莱の地を割いた。09広寧は、上谷の地を割いた。10昌黎は、遼東属国である。11新野・12随郡・14義陽は、いずれも南陽の地を割いた。15毗陵は、呉郡の地を割いた。16宣城は、丹陽の地を割いた。17南康は、廬陵南部である。
18晋安は、建安の地を割いた。19寧浦は、合浦北部である。20始平は京兆・扶風の地を割いた。21略陽は広魏であり、改名した。23南平は、呉の南郡を改名したものである。
(順番が飛んだ)14義陽・22楽平は、どちらも魏が置いたが、晋が増やしたものにカウントされた。13陰平も曹操が置いたが、重複して出てきて、チェック不足である。
『晋書』地理志によると、晋初に広漢を分けて新都郡を立て、河間を分けて高陽国を立て、勃海を分けて章武国を立てたとあるが、ここに書かれていない。しかも、高陽・章武は、すでに漢代・魏代に設置されたとしている。新都の一郡のみ、遺漏すべきでない。
『晋地理志新補正』によると、04臨淮は漢の旧郡に戻したものであり、『晋書』地理志の臨淮郡の注に、漢が置いたとある(晋初に置いたという文と矛盾し、晋初が誤りである)。05東莞は、『水経注』によると魏の黄初期に置かれた。07汝陰は、『通典』によると魏が置いて、司馬懿が鄧艾に屯田させたが、のちに廃された。晋武帝の泰始二年、復た置かれた。

08長広は、『魏志』何夔伝によると、何夔が長広太守に遷ったとあるが、『晋書』地理志は、晋の太康期に立てたという。地理志は、挺県が長広郡に属したという。『宋志』は、晋の長広郡は、咸寧三年に他選った…とある。しかし、太康期に地理志は、挺県が長広に属したという。ゆえに長広は咸寧期より以前に立てられ、長広郡があったと分かる。漢末に黄巾が青州・徐州で起こり、郡県は制圧できないから、東莱・北海を分けて、長広郡を置いたが、すぐに廃された。咸寧三年になり、復た置かれたのである。

10昌慮は、『晋書』地理志に魏が置いたとし、『水経注』も魏が置いたとする。
09広寧・11新野・12随郡は、恵帝が14義陽を分けて立てた。12随郡は南陽を分けて立て、11新野は武帝のとき立てたのではない。この地理志は誤りである。
21略陽は、もとは魏が置いた広魏郡である。泰始期に改名したので、増設ではなく、この地理志は誤りである。
23南平は、呉が立てた南郡であり、増設したとは言えなず、この地理志は誤りである。
以上より、武帝が置いた郡は、01滎陽・02上洛・03頓丘・04臨淮・05東莞・06襄城・07汝陰・08長広・09広寧・15毗陵・16宣城・17南康・18晋安・19寧浦・20始平・22楽平である。その他に、兗州の濮陽・高平、冀州の章武・高陽、梁州の新都の、全部で二十一郡である。21略陽・23南平は、改名しただけで増設ではない。
『通典』は、晋が呉を平定したのち、郡国二十二を増設したという。あるいは略陽・南平の二郡が混入している。『水経注』は、漢が楽平郡を立て、治所は沾というが、恐らく誤りである。


司隸を省いて司州を置き、分けて梁、秦、寧、平の四州を立て、呉の広州をひきつぎ、十九州となった。司、冀、兗、豫、荊、徐、揚、青、幽、平、并、雍、涼、秦、梁、益、寧、交、廣州である。

『晋地理志新補正』によると、『通典』に太康元年、合浦の北を分けて広州とし、番禺を治所としたと。畢氏の引く『通典』によると、広州は太康元年に分けられたとするが、確かではない。『晋書』地理志の広州の注を参照。

郡国は百七十三である。呉が置いた二十五、蜀が置いた十一(※1)、魏が置いた二十一、漢代からの九十三(※3)と、晋が置いた二十三である。

『廿二史考異』十九によると、『続漢書』と『晋書』地理志をどちらも見ると、後漢の郡国は百五あり、省かれたのは八である。01陳・02漁陽・03上郡・04五原・05雲中・06定襄・07朔方・08張掖属国である。
旧名を改めたのは、十二である。01濮陽(東郡)・02高平(山陽)・03淮南(九江)・04天水(漢陽)・05范陽(涿郡、魏が改める)・06燕(広陽)・07建寧(益州郡、蜀が改める)・08陰平(広漢属国、蜀が改める)・09漢嘉(蜀郡属国、漢末に改める)・10朱提(犍為属国、蜀が改める)・11西海(居延属国、漢末に改める)・12昌慮(遼東属国、魏が改める)である。

漢末に増設されたのは六である。01博陵・02新平・03西平・04西郡・05南安・06汶山である。
魏が置いたのは、十五(※2)である。01平陽・02広平・03陽平・04譙・05弋陽・06安豊・07楽陵・08帯方(もとは公孫度が置いた)・09新興・10襄陽・11新城・12魏興・13上庸・14広魏・15南郷である。
蜀が置いたのは、七である。巴東・巴西・江陽(この三つは劉璋が置いた)・梓潼・涪陵・雲南・興古である。
呉が置いたのは、二十六である。01廬陵・02鄱陽・03宜都(もとは劉備が置いた)・04天門・05建平・06衡陽・07湘東・08邵陵・09武昌・10安成・11呉興・12東陽・13新都・14臨海・15建安・16臨川・17新昌・18武平・19九徳・20臨賀・21始安・22始興・23桂林・24高涼・25高興・26寧浦である。

晋が置いた二十二は、01滎陽・02上洛・03汲郡・04頓邱・05襄城・06汝陰・07章武・08高陽・09広寧・10楽平・11始平・12新都・13城陽・14長広・15東莞・16臨淮・17義陽・18南平・19宣城・20毗陵・21晋安・22南康である。(17義陽・15東莞・07章武・06汝陰・13城陽・14長広の諸郡は、魏代にはいずれも存在したが、晋が置いたとしている。魏に廃止されたが、晋が再び立てたものである)
また、広魏を略陽と改め、南郷を順陽と改めた。呉の新都を新安と改めた。
漢代の旧名に依ったものは、八十五郡である。

また、『晋書』地理志にて、司州は郡国十二を、兗州は八を、豫州は十を、冀州は十三を、幽州は七を、平州は五を、并州は六を、雍州は七を、涼州は八を、秦州は六を、梁州は八を、益州は八を、(揚)〔寧〕州は四を、青州は六を、徐州は七を、荊州は二十二を、揚州は十八を、交州は七を、広州は十を含み、あわせて百七十二である。蓋し、青州は北海の一郡が抜けている。
『晋地理志新補正』によると、蜀を十二郡は、『晋書』地理志よりも、建鬱(?)の一郡が多い(※1)。魏は十七郡(※2)とし、朝歌・義陽の二郡が多い。
また『晋書』地理志によると、漢の旧郡は、河南から鬱林まで九十であるが、ここでは九十三(※3)といい、誤って三つ多い。済陽はもとの済陰であり、范陽はもとの涿郡であり、巴郡・巴西郡はもとは漢代に置かれたが、劉備が立てたものにカウントしている。

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戸数と人口数、司州の冒頭

戸数と人口数

戸数に関する記述だけ、抜粋する。最初は前漢。
文帝・景帝は、民を休養させ、平帝の元始二年、民の戸数は千二百二十三萬三千六十二、

『魏志』陳羣伝の注に、『漢書』地理志を按ずるに、原資二年、天下の戸数・口数は最も盛んであり、汝南郡は大郡となって、三十余万戸あったというコメントがある。

口数は五千九百五十九萬四千九百七十八である。東西は九千三百二里、南北は萬三千三百六十八里であった。……

桓帝の永壽三年、戸数は千六十七萬七千九百六十、口数は五千六百四十八萬六千八百五十六である。

永壽三年戶千六十七萬七千九百六十口五千六百四十八萬六千八百五十六:後漢書郡國志在本志校記中以後簡稱續漢志一注云:「永壽二年,戶千六百七萬九百六,口五千六萬六千八百五十六人。」
『晋書』では、戸数は1067万7960、口数は5648万6856。校勘に載せる『続漢書』では、戸数は1607万0906、口数は5006万6856である。だいぶ違う。


……蜀漢は、戸数が二十萬、男女口は九十萬である。孫呉は、戸数が五十二萬三千、男女口は二百四十萬である。……太康元年、呉を平定すると、戸数は二百四十五萬九千八百四十、

『通典』七は、「八百四」に作って、「十」字がない。下三桁が840か804かの違い。また、蜀の炎興元年は、魏の景元四年である。この歳、魏が蜀を滅ぼした。晋の太康元年(平呉)まで、十八年である。戸数が九十八萬六千三百八十一に増え、口は八百四十九萬九百八十二に増えた。つまり、三国鼎立のとき、天下の合計は、戸数が百四十七萬三千四百三十三で、口数は七百六十七萬二千八百八十一であった。
『魏志』陳羣伝の注によると、『晋書』太康三年『地記』によると、晋の戸数は三百七十七萬である。按ずるに、太康三年は、平呉の二年後である。江南の地をあわせて、百三十余万戸が増えたのである。

口数は一千六百一十六萬三千八百六十三である。

司州の概要

司州は、禹貢の豫州の地である。漢武帝が、初めて司隸校尉を置いて、部する所は、三輔・三河の諸郡であった。其の界は、西は雍州の京兆、馮翊、扶風三郡を得て、北は冀州の河東、河内二郡を得て、東は豫州の弘農、河南二郡を得て、郡は七であった。
位望は牧伯より隆く、銀印・青綬である。

[六]位望隆于牧伯:「隆」,各本作「降」,宋本作「隆」,今從宋本。

光武帝が洛を都としても、司隸の管轄(部する所)は、前漢と同じであった。魏が受禅すると、漢宮を都とした。司隸の管轄は、河南、河東、河內、弘農と、冀州の平陽を合わせて、合計で五郡であり、そこに司州を置いた。

『元和郡県志』五によると、陳留王は司隷校尉の管轄に、司州を置いた。
『晋地理志新補正』によると、『十三州志』によると、京師の州は、司隷校尉が管掌した。ゆえに司州と言ったと。

西晋も魏の都に仍ったが、三輔を雍州ととし、河南郡を分けて滎陽郡を立て、雍州の京兆を分けて上洛郡を立て、東郡を廃して頓丘を立て、司州を司隷校尉に統括させた。
州は、郡一十二、県一百、

『漢志』によると、河南は、もと秦の三川郡である。高帝が改めた。『続漢志』注によると、建武十五年(『宋志』は五年に作る)、河南尹と改めた。
『晋地理志新補正』によると、両漢の河南郡には、原武県があった。魏收『地形志』によると、晋代に原武県を罷めた。

戸四十七萬五千七百を統べる。

縣一百戶四十七萬五千七百:『晋書』地理志は、下に九十九県があり、足し算すると、戸数は四十九萬二千四百となり、数字が合わない。各州とも、同様に、冒頭文と明細が合っておらず、以後、校勘しないと。


河南郡

河南郡は、漢が置いた。統縣十二、戶一十一萬四千四百。尹を置く。

洛陽
尉を置いた。五部、三市。東西七里,南北九里。東有建春、東陽、清明三門,南有開陽、平昌、宣陽、建陽四門,西有廣陽、西明、閶闔三門,北有大夏、廣莫二門。
司隸校尉・河南尹および百官は、城内に列した。

『晋書斠注』は洛陽について長文があるが、省く。

河南:周東都王城郟鄏也。

両漢の旧県である。『寰宇記』一によると、後漢および魏晋では、いまの宛城を理めた。『続漢志』注によると、王隠『地道記』に、王常は雒城を去ること四十里であり、蒯は県の西南にあり、蒯亭史がおかれた。『周本紀正義』(『史記正義』周本紀)によると……、『晋書斠注』は長文があるが省く。


……この調子で続けるのかは、別途 検討してます。171107

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