両晋- > 『晋書斠注』抄訳

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『晋書』巻五十七 列伝二十七 吾彦伝

孫呉に仕える

吾彥字士則,吳郡吳人也。出自寒微,有文武才幹。身長八尺,手格猛獸,旅力絕羣。仕吳為通江吏。時將軍薛珝杖節南征,軍容甚盛,彥觀之,慨然而歎。有善相者劉札謂之曰:「以君之相,後當至此,不足慕也。」

吾彦は、あざなを士則という。

『斠注』によると、『書鈔』五十四に引く臧栄『晋書』・『御覧』三百八十六に引く王隠『晋書』は、どちらも「呉」彦に作る。「吾」彦が正しい。王溶伝もまた、誤って「呉」彦に作る。

呉郡呉県のひと。寒微より出で、文武の才幹あり。身長は八尺、手づから猛獣と格し、旅(膂)力は群をぬく。

唐修『晋書』は「旅」に作るが、王隠『晋書』は「膂」に作る。

呉につかえて通江吏となる。ときの(呉の)将軍の薛珝は、節を杖して南征し、軍容は盛んである。吾彦はこれを見えて、慨然として歎じた。人相見である劉札は吾彦に、「きみの人相を見ると、のちにこの(薛珝のレベルの指揮官)になれる。憧れるほどでもない」といった。

初為小將,給吳大司馬陸抗。抗奇其勇略,將拔用之,患眾情不允,乃會諸將,密使人陽狂拔刀跳躍而來,坐上諸將皆懼而走,唯彥不動,舉几禦之,眾服其勇,乃擢用焉。

はじめ少将となり、呉の大司馬の陸抗の配下であった。陸抗は、吾彦の勇略を評価し、抜擢しようとした。だが、同輩たちが(吾彦の抜擢に)納得しないと考えた。そこで陸抗は、ひとに狂ったふりをさせ、抜剣して跳躍して(諸将を襲うふりをさせた。同席した諸将らは、みな懼れてにげたが、吾彦だけは動揺せず、つくえを挙げて防いだ。諸将らは、吾彦の勇気に感服した。陸抗は(諸将の反発なく)吾彦を抜擢した。

『御覧』七百三十九に引く王隠『晋書』によると、将になるべき者(昇格の候補者)を全て集めて、勇気の有無をチェックした。狂人に抜刀して襲撃させると、吾彦だけが逃げなかったと。
王隠『晋書』のほうが、吾彦の昇進が「おもしろくない」と感じる対象者が明確。


稍遷建平太守。時王濬將伐吳,造船於蜀,彥覺之,請增兵為備,晧不從,彥乃輒為鐵鎖,橫斷江路。及師臨境,緣江諸城皆望風降附,或見攻而拔,唯彥堅守,大眾攻之不能克,乃退舍禮之。

のちに建平太守にうつった。ときに(晋将の)王濬が伐呉しようと、蜀で造船した。吾彦はこれを察知して、増兵して防備するように申請した。だが孫晧は従わない。

『三国志』孫晧伝に引く干宝『晋紀』によると、王濬が蜀で船を建造すると、吾彦は、流れてきた(建材)を提出して、建平郡の増兵を求めた。しかし孫晧は、許諾しなかった。

吾彦は、鉄鎖をつくり、江路に横断させた。晋軍が国境にくると、長江沿いの諸城は、すべてなびいて晋軍に降伏した。攻め落とされる城もあった。しかし吾彦だけは堅守して、晋軍は建平郡に勝つことが出来ず、退いて一定の評価した。

西晋に仕える

吳亡,彥始歸降,武帝以為金城太守。帝嘗從容問薛瑩曰:「孫晧所以亡國者何也?」瑩對曰:「歸命侯臣晧之君吳,昵近小人,刑罰妄加,大臣大將無所親信,人人憂恐,各不自安,敗亡之釁,由此而作矣。」其後帝又問彥,對曰:「吳主英俊,宰輔賢明。」帝笑曰:「君明臣賢,何為亡國?」彥曰:「天祿永終,曆數有屬,所以為陛下擒。此蓋天時,豈人事也!」

呉が滅亡すると、吾彦は晋に帰順した。武帝は、吾彦を金城太守とした。
武帝はかつて薛瑩に、「孫晧はなぜ国を滅ぼしたか」と聞いた。薛瑩「孫晧が呉で皇帝であったとき、小人を近づけ、みだりに刑罰を加えた。大臣・大将は親信されず、人人は憂恐し、おのおの不安である。敗北の原因は、このように発生した」と。のちに武帝は吾彦にも聞いた。吾彦「呉主の孫晧は英俊で、宰輔は賢明でした」と。武帝は笑って、「君が聡明で、臣が賢ければ、どうして国が滅びたのか」と。吾彦「天禄 永(とこし)えに終へん、歴数は属あり。これが(孫晧が)陛下に捕らえられた理由です。天の時だったのでしょう。どうして人のせいでしょうか」と。

現実的だけど、旧主の悪口をいった薛瑩。理念的だけど、旧主を弁護した吾彦。


張華時在坐,謂彥曰:「君為吳將,積有歲年,蔑爾無聞,竊所惑矣。」彥厲聲曰:「陛下知我,而卿不聞乎?」帝甚嘉之。

ときに張華が同席しており、吾彦に「きみは呉将となって、数年が経っていた。しかし私は、きみの評判を聞いたことがない(そんな優れた受け答えができるのに、怪しいことだ)」と。吾彦は声をはげまし、「陛下(武帝)は、私を知ってくれていた。しかし張華は私を知らなかったんですか(張華の情報のネットワークと努力が足りないのではないか)」と(逆に張華をやりこめた)。武帝は、感心した。

轉在敦煌,威恩甚著。遷雁門太守。時順陽王暢驕縱,前後內史皆誣之以罪。及彥為順陽內史,彥清身率下,威刑嚴肅,眾皆畏懼。暢不能誣,乃更薦之,冀其去職。遷員外散騎常侍。帝嘗問彥:「陸喜、陸抗二人誰多也?」彥對曰:「道德名望,抗不及喜;立功立事,喜不及抗。」

敦煌太守に転任し、威恩があらわれた。雁門太守に遷った。ときに順陽王の司馬暢が驕縦であり、前後の(歴代の前任の)内史は、罪を誣告された。吾彦が順陽内史となると、身を清めて下を率い、威刑は厳粛なので、みな吾彦を畏懼した。司馬暢は、吾彦を(欠点をあげつらって)誣告することができないから(ジャマに思い)、吾彦を(中央官に)推薦して、その職(順陽内史)を去らせようとした。吾彦は(転任させられて)員外散騎常侍となった。
武帝がかつて吾彦に「陸喜・陸抗の二人は、どちらが優れているか」と聞いた。吾彦「道徳・名望は、陸抗は陸喜に及ばない。功を立て事を立てるならば、陸喜は陸抗に及ばない」と(陸氏のどちらの名誉も保った)。

武帝は、旧呉の情報収集に熱心である。吾彦は、陸抗に抜擢され、最末期に建平太守となった。先輩たちの名誉を守りながら、旧呉の人材をアピールする。吾彦その人もまた、みずからの有能さを示すことで、旧呉の評価を上げることに、役立っている。


會交州刺史陶璜卒,以彥為南中都督、交州刺史。重餉陸機兄弟,機將受之,雲曰:「彥本微賤,為先公所拔,而答詔不善,安可受之!」機乃止。因此每毀之。長沙孝廉尹虞謂機等曰:「自古由賤而興者,乃有帝王,何但公卿。若何元幹、侯孝明、唐儒宗、張義允等,並起自寒微,皆內侍外鎮,人無譏者。卿以士則答詔小有不善,毀之無已,吾恐南人皆將去卿,卿便獨坐也。」於是機等意始解,毀言漸息矣。

たまたま交州刺史の陶璜が卒すると、吾彦を南中都督・交州刺史とした。
吾彦は、かさねて陸機兄弟に贈物をした。陸機が受けとろうとすると、(弟の)陸雲が、「吾彦は微賤の出身であり、先公(われらの父の陸抗)に抜擢された。詔に答えるとき(受け答えが)良くない。贈物を受けてはならない」といった。陸機は、贈物を拒絶し、吾彦のことを悪く言うようになった。
長沙孝廉の尹虞は、陸機ら(陸雲も)に、「上古より卑賎から身を興した者のなかに、帝王になった場合があり、公卿に留まらない。何元幹・侯孝明・唐儒宗・張義允らは、寒微から身を興し、内に侍って外に鎮し、ひとから譏られなかった。

何元幹(何楨)・侯孝明(侯史光)・唐儒宗(唐彬)・張義允(?)

あなたは、士則(吾彦)が詔に答えるとき、ちょっと過失があったから、際限なく批判している。この態度を改めねば、南人(旧呉の人材)は、あなたのもとから去り(陸遜の孫を旧呉のリーダーとは見なさず)、あなたがたは孤立することになる」と。こうして陸機らは気持ちがほぐれ、吾彦への批判は、少しずつ終息した。

初,陶璜之死也,九真戍兵作亂,逐其太守,九真賊帥趙祉圍郡城,彥悉討平之。在鎮二十餘年,威恩宣著,南州寧靖。自表求代,徵為大長秋。卒於官。

これより先、陶璜が死ぬと、九真の守兵が乱をおこし、太守を追い出した。九真賊帥の趙祉は郡城を囲んだ。吾彦は、すべてこれを平定した。出鎮すること二十余年、威恩は宣著たりて、南州 寧靖たり。自ら上表して後任者との後退をもとめ、中央に徵されて大長秋となった。在官で卒した。

『書鈔』五十四 臧栄緒『晋書』によると、中央に徴されて「秋卿」になったという。『晋書校文』三によると、陶璜伝において吾彦は、じつは交州刺史として死んでおり、大長秋として死んだのではないと。


おわりに

吾彦は、薛珝に憧れた、陸抗に抜擢された。もしも、呉が存続していれば、重臣になったと思われる。呉の滅亡を、益州からの木屑で察知したものの、すでに孫晧は滅亡モードに入っており、現実的な対策は間に合わなかった。王濬の晋軍から、建平郡を守るという、ミクロで見れば優れた軍功だが、マクロで見れば「意地を見せつけた」レベルの功績しか建てられなかった。

西晋では、金城太守・敦煌太守・雁門太守と、いずれも西北の異民族との接点に配属された。交阯刺史となったのも、同じように、辺境の反乱が絶えない地域を任されたという意味で、同じ文脈のキャリア。
仕える王朝が、呉でも晋でも、守りための重鎮として、存在感を発揮した。実力本位でなりあがった、方鎮の将である。

出自に由来する、人間関係のトラブルがある。「呉のなかで微賤の出身」かつ「晋では、亡国の呉の出身」という、ダブルのマイナスの境遇である。呉のなかでは、陸機・陸雲に蔑まれる。晋のなかでは、張華に小馬鹿にされる。
マイナス×マイナス=プラスとなるように、ぎゃくに武帝から見れば、人柄や情報に信頼が持てるというか、実力本位に取り立てやすかったのかも知れない。170709

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『晋書』巻四十二 列伝十二 王濬伝

蜀に行くまで

王濬 字士治,弘農湖人也。家世二千石。濬博涉墳典,美姿貌,不修名行,不為鄉曲所稱。晚乃變節,疏通亮達,恢廓有大志。嘗起宅,開門前路廣數十步。人或謂之何太過,濬曰:「吾欲使容長戟幡旗。」眾咸笑之,濬曰:「陳勝有言,燕雀安知鴻鵠之志。」

王濬は、字を士治、弘農の湖の人。家は世よ二千石。博く墳典を涉み、姿貌を美しくし、名行を修めず、郷曲で評価されなかった。年を取ってから態度を改め、大志を抱くようになった。邸宅を建て、門前の道の広さを数十歩とした。「なぜそんな広さを設けたのか」と聞かれると、王濬は「長戟・幡旗が入るようにしたのだ」と言った。笑われると、王濬は「陳勝は、『燕雀には、鴻鵠の志が分からない』と言ったぞ」と、自分の志を、陳勝になぞらえた。

魏の中期に生まれたが、自堕落。しかし人生の途中で奮起する。魏の中期の閉塞感(活躍の場がない)と、魏晋革命・天下統一へと向かい、時代が好転する気配。王濬の生き方は、それとシンクロしている。気がする


州郡辟河東從事。守令有不廉潔者,皆望風自引而去。刺史燕國徐邈有女才淑,擇夫未嫁。邈乃大會佐吏,令女於內觀之。女指濬告母,邈遂妻之。後參征南軍事,羊祜深知待之。祜兄子暨白祜:「濬為人志太,奢侈不節,不可專任,宜有以裁之。」祜曰:「濬有大才,將欲濟其所欲,必可用也。」轉車騎從事中郎,識者謂祜可謂能舉善焉。

州郡は河東従事に辟した。守令に廉潔でない者がいれば、王濬は(仕えるのを潔しとせず)自ら辞去した。雍州刺史である燕国の徐邈は、才淑ある娘がおり、夫を選んで未婚であった。徐邈が佐吏らと大会したとき、娘に佐吏らを見させた。娘は王濬を指さして母に告げた。徐邈は王濬に嫁がせた。のちに征南軍事に参じた。

『読史挙正』によると、本紀では咸寧二年十月、羊祜が征南将軍となり、王濬は益州刺史にうつる。これは、張弘を誅殺した後で、(張弘の誅殺は)泰始八年のことである。ゆえに王濬が参じた(ときの羊祜の職務)は、征南の軍事ではない。

羊祜は、王濬を理解して待遇した。羊祜の兄子の羊暨は、羊祜に「王濬の人となりは、志が大きく、奢侈は節がない。大任を任せられない。外したほうがいい」と。羊祜「濬は大才があり、その志・欲求を実現しようとするから、有用な人材である」と。
車騎従事中郎に転じた。識者は、羊祜は才能を有効活用できる!と言った。

王濬の人物像

王濬は、高官の家に生まれたが、マジメに官途を昇ることをせず、ゼイタクして、適当に暮らしていた。自尊心が高く、ワガママ。「上司が気に入らなければ、すぐに退職する」という、使いにくいタイプ。「守令(太守・県令)に廉潔でない者」がいれば、退職したというが、これは文飾であり、けっきょく人間関係で衝突したのだろう。
きっと王濬は、「上司の下で働く」が苦手。独自の価値観をもち、かってに大ぶろしきを拡げる。みずからを、秦末の反乱のリーダーに準えるほど。周囲と協調し、評価をもらうより、オレの美学を貫く。「オレがいちばん偉い」という、猿山のボスのタイプなので、同郷で家の前の道を笑われたり、羊暨に不適格者と言われたりする。
こういう王濬は、「自ら皇帝になるしかない」かと思いきや、そうでもない。
王濬は、完結した組織のトップをさせるのがベスト(有能であるばね)。半径5メートル以内に、上司にあたる人物がいないと、王濬は気持ちよく働く。羊祜はそれを見抜いていたようで、蜀漢滅亡後の益州を任せた。

益州に赴任して

除巴郡太守。郡邊吳境,兵士苦役,生男多不養。濬乃嚴其科條,寬其傜課,其產育者皆與休復,所全活者數千人。轉廣漢太守,垂惠布政,百姓賴之。濬夜夢懸三刀於臥屋梁上,須臾又益一刀,濬驚覺,意甚惡之。主簿李毅再拜賀曰:「三刀為州字,又益一者,明府其臨益州乎?」

巴郡太守に除せられた。

『御覧』五百十二に引く『三十国春秋』によると、羊祜は荊州を戸督して、襄陽に鎮した。ときに羊祜には、平呉の志があった。王濬を巴郡太守として、巴峡の任(対呉の戦線)を任せようとした。兄子の羊暨が、王濬が不適格といったのは、この巴郡太守の任務(対呉の戦線)のことであると。

郡境は呉と接し、兵士は役に苦しみ、男子が生まれても、多くは養われなかった。王濬は科條を厳しくし、傜課を緩やかにし、男子を産み育てた者は、みな休復し(傜役を全部免除し)、数千人の兵員が保全された。

晋と呉の対決は、一時的な決戦ではなく、いかに中長期的に兵員を確保できるか。これは、国の経営にひとしい。傜役を調整することで、男子を産み育てられる環境をつくった。

広漢太守に転じ、善政によって百姓に頼られた。夢を見て、三刀が臥屋の梁上に懸かっており、さらに一刀が益(ふ)えた。

『書鈔』百二十三に引く陸機『晋紀』によると、王濬は巴郡にいるとき、夢で四刀が上に懸かっていたと。陸機の文だと、「益」えたことが分からないから、唐修『晋書』のほうが優れている。


王濬は驚いて目を覚まし、この夢をにくんだ。主簿の李毅は、再拝して祝賀し、「三刀は『州』字であり、それが益(ふ)えたなら、益州長官になる前徴ではないですか」と。

『書鈔』百二十三 陸機『晋紀』も夢判断は同じで、夢の翌年に益州刺史となった。『類聚』六十に引く陸機『晋書』は、李毅を誤って李「穀」に作る。『華陽国志』十一に李毅伝が見える。いまは省く。『華陽国志』李毅伝やれ。


及賊張弘殺益州刺史皇甫晏,果遷濬為益州刺史。濬設方略,悉誅弘等,以勳封關內侯。懷輯殊俗,待以威信,蠻夷徼外,多來歸降。徵拜右衞將軍,除大司農。車騎將軍羊祜雅知濬有奇略,乃密表留濬,於是重拜益州刺史。

賊の張弘が益州刺史の皇甫晏を殺すと、はたして王濬が益州刺史となった。王濬は方略を設け、悉く弘らを誅し、勲功によって関内侯となった。

『華陽国志』八によると、泰始十年、汶山・白馬胡は、ほしいままに諸種の夏を略奪した。刺史の皇甫晏は、上表して討伐を申し出た。別駕従事の王紹らは諫めた。など、皇甫晏の敗北についての記述がある。はぶく。
『水経注』沫水注によると、晋の泰始九年、黄龍が利慈池に現れた。県令の董玄之は、吏民を率いてこれを見て、刺史の王濬に報告した。王濬は上表し、慎重は「護龍池」と改称した。護龍県のことは、太康三年より前のことであるが、『華陽国志』には記載がなく、モレである。云々、いいや。

殊俗を懐輯し、威信を以て待し、蛮夷徼外は、多く来て帰降した。

益州のトップとして、諸葛亮と同じく、南蛮を慰撫している。
『華陽国志』八によると、咸寧三年春、刺史の王濬が、犍為の民の陳瑞をを誅した。陳瑞は鬼道により、、はぶく。『華陽国志』八を見ましょうと。『晋書斠注』王濬伝は、『華陽国志』の挿入先という役割があるから、記事が膨らみがち。

右衛將軍を拝し、大司農に除せられた。

『華陽国志』八によると、四年、刺史の王濬は大司農になるため、漢寿まで行った。かさねて三郡の李毅をつかわし、何攀とともに、「私に伐呉させてください」と上表した。すなわち、羊祜が「伐呉のため、王濬を益州に置こう」と考え、王濬もそれを望み、配下を使って中央に働きかけた。

車騎将軍の羊祜は、おおいに王濬に奇略があると知るから、ひそかに上表して、王濬を(益州に)留めよと(武帝に)いった。こうして、重ねて益州刺史を拝した。

武帝謀伐吳,詔濬修舟艦。濬乃作大船連舫,方百二十步,受二千餘人。以木為城,起樓櫓,開四出門,其上皆得馳馬來往。又畫鷁首怪獸於船首,以懼江神。舟楫之盛,自古未有。濬造船於蜀,其木柿蔽江而下。吳建平太守吾彥取流柿以呈孫晧曰:(呉)〔吾〕彦「晉必有攻吳之計,宜增建平兵。建平不下,終不敢渡。」晧不從。尋以謠言拜濬為龍驤將軍、監梁益諸軍事。語在羊祜傳。

武帝は、伐呉を謀り、王濬に船艦を作らせた。

『魏志』閻温伝 注引『世語』に、「世語曰、就子斅、字祖文、弘毅有幹正、晋武帝世為広漢太守。王濬在益州、受中制募兵討呉……」とあり、『晋書斠注』が引いている。やるとしても、別の機会に。

大艦をつなぎ合わせ、一辺が百二十歩、二千余人が乗れた。(艦隊に)木で城を作り、楼櫓をたて、四方を門に開き、船のあいだを騎馬で往来できるようにした。

『華陽国志』八によると、咸寧三年三月、詔を受けて屯田をやめて、兵を造船に充てた。はぶく。やはり、『華陽国志』八をやりましょうと。

船首に鷁(水鳥)首・怪獣を描き、江神を懼れさせた。

『晋書斠注』によると、『淮南子』本経訓 高注により、「鷁」は水鳥である。船首にそれを描いたから、水鳥の首を象ったものになったと。ほかに、「鷁」とか、船首の装飾について見える。

舟楫の盛んさは、古代より前例がない。王濬が蜀で造船すると、呉の建平太守の吾彦が、木柿が長江の水面をおおったから、バレた。しかし孫晧は、警戒を強めず。

すぐ上で、『晋書』吾彦伝として見たエピソード。

謠言によって、王濬を龍驤將軍とし、監梁益諸軍事とした。羊祜伝に見える。

『華陽国志』八が、ここでも『晋書斠注』に引かれている。『元和郡県図志』二十七によると、龍驤水は、黄陂県の南七十二里にあり、晋の龍驤将軍の王濬の水軍がここで……云々。
『通鑑考異』によると、羊祜伝には、上表して王濬を(益州に)留めて、監益州諸軍事とし、龍驤将軍を加えたという。『華陽国志』は、咸寧五年に龍驤将軍を拝し、監梁・益二州としたという。咸寧五年、すでに羊祜は卒しているから、「羊祜が王濬を龍驤将軍とした」というのは、信頼できない。


時朝議咸諫伐吳,濬乃上疏曰:「臣數參訪吳楚同異,孫晧荒淫凶逆,荊揚賢愚無不嗟怨。且觀時運,宜速征伐。若今不伐,天變難預。令晧卒死,更立賢主,文武各得其所,則強敵也。臣作船七年,日有朽敗,又臣年已七十,死亡無日。三者一乖,則難圖也,誠願陛下無失事機。」帝深納焉。賈充、荀勖陳諫以為不可,唯張華固勸。又杜預表請,帝乃發詔,分命諸方節度。濬於是統兵。先在巴郡之所全育者,皆堪傜役供軍,其父母戒之曰:「王府君生爾,爾必勉之,無愛死也!」

朝議は、みな伐呉を諫めた。王濬が上疏した。「もし孫晧が死に、賢主が立てば、呉が強くなる。私は7年間、造船してきて老朽してきたし、私自身も七十歳なので、いつ死んでもおかしくない。孫晧の暴政、船艦の性能、私の寿命の三点があるうちに、征呉をしてください」と。武帝は認めたが、賈充・荀勗が抵抗した。ただ張華だけは、つよく勧めてくれた。
また杜預が征呉を上表し、武帝が詔を発して、各方面に進発を命じた。

『文選』晋紀 総論注によると、干宝『晋紀』に、杜預もまた上疏したという。武帝は、以前に羊祜の意見を認めており、杜預・王濬からも平呉を提案されたから、ついに平呉を決心した。『華陽国志』八に、安東将軍の王濬の上表が載っている。王濬伝と比べるべし。何攀伝も参照。

ここにおいて王濬は、兵を統べた。さきに巴郡において育成が完了した男子は、みな傜役(の負担)に堪えることができ、軍に物資を供出した。その父母は、「王府君のおかげで、お前が生まれた。がんばれ。死を惜しむなよ」と。

『御覧』四百七十九に引く干宝『晋紀』によるうと、王濬は巴郡で兵民をいたわったため、数千人が兵として生長した。父母は、「生を惜しむな」と激励して送り出した。


いよいよ征呉の戦い

太康元年正月,濬發自成都,率巴東監軍、廣武將軍唐彬攻吳丹楊,克之,擒其丹楊監盛紀。吳人於江險磧要害之處,並以鐵鎖橫截之,又作鐵錐長丈餘,暗置江中,以逆距船。先是,羊祜獲吳間諜,具知情狀。濬乃作大筏數十,亦方百餘步,縛草為人,被甲持杖,令善水者以筏先行,筏遇鐵錐,錐輒著筏去。又作火炬,長十餘丈,大數十圍,灌以麻油,在船前,遇鎖,然炬燒之,須臾,融液斷絕,於是船無所礙。

太康元年正月、王濬は成都を出発し、巴東監軍・廣武將軍の唐彬をひきい、呉の丹陽で勝って、

『華陽国志』八によると、冬十二月、王濬は成都から水陸の軍を発した。出発にあたり、牙門将の李延が愛する侍将を斬った。おかげで先を争わず、粛然と進軍した。
『読史方輿紀要』三によると、丹陽は荊州府の帰州の東南七里にある。ぼくは思う。いわゆる丹陽郡ではない。

丹楊監の盛紀を捕らえた。呉は要害に鎖を張り巡らせて、水軍をふせいだ。
これより先、羊祜が呉の間諜をとらえ、事情を聞いていた。王濬は、大筏を数十つくり、先行させて鎖を切断した。油をそそいで火を燃やし、鎖を焼き払ったから、船は進むことができた。

二月庚申,克吳西陵,獲其鎮南將軍留憲、征南將軍成據、宜都太守虞忠。壬戌,克荊門、夷道二城,獲監軍陸晏。乙丑,克樂鄉,獲水軍督陸景。平西將軍施洪等來降。乙亥,詔進濬為平東將軍、假節、都督益梁諸軍事。

二月庚申、呉の西陵で克ち、鎮南将軍の留憲

『晋書』武帝紀では、鎮軍将軍に作るという。

征南将軍の成拠・宜都太守の虞忠を捕らえた。

校勘によると、「成璩」に作り、「殺した」に作るものもある。『資治通鑑』八十一は、「呉都督の留憲ら」に作る。

二月壬戌、荊門・夷道の2城で克ち、監軍の陸晏を捕らえた。二月乙丑、楽郷で克って、水軍督の陸景を捕らえた。平西将軍の施洪らが、来りて降った。

労格校勘記によると、『呉志』陸抗伝に、「二月壬戌、陸晏は王濬の別軍に殺された」とある。「癸亥、陸景もまた殺害された」とある。この王濬伝と、やや異なる。「監軍」とあるが、『晋書』武帝紀もまた、「夷道監」に作る。夷道は宜都郡に属し、楽郷は南平の孱陵に属する。けだし並行して進軍したのが実態で、武帝紀ではどちらも壬戌の一日に繋げたのだろう。『読史方輿紀要』二によると、荊門はいまの夷陵州の宜都県の西北五十里にある。

乙亥、詔して、王濬を平東将軍・仮節・都督益梁諸軍事とした。

『華陽国志』八によると、江州に至るや、詔して王濬を平東将軍・都督二州とした。巴東監軍の唐彬および平南軍(字数の不足か)は、どちらも指授を受け、別に遣わされた。参軍の李毅は、軍をひきいて涪陵より入って武陵を取り、巴陵で会した。


濬自發蜀,兵不血刃,攻無堅城,夏口、武昌,無相支抗。於是順流鼓棹,徑造三山。晧遣游擊將軍張象率舟軍萬人禦濬,象軍望旗而降。晧聞濬軍旌旗器甲,屬天滿江,威勢甚盛,莫不破膽。用光祿勳薛瑩、中書令胡沖計,送降文於濬曰:

王濬が蜀を発してから、兵の刀は血ぬられず、攻めれば城はすぐに落ちた。夏口・武昌は、連携して連携しない。勢いに乗って、三山を通過した。

『元和郡県図志』二十五によると、三山は上元県の征南五十里にある。『読史方輿紀要』二十によると、三山は江寧府城の西南五十七里にある。

孫晧は、游撃将軍の張象に水軍1万をひきいて王濬を防がせた。張象は、晋軍の旗を見ると(すぐに)降伏した。孫晧は、王濬軍の旌旗・器甲が、長江に満ちており、威勢が盛んであると聞いて、肝を潰した。光禄勲の薛瑩・中書令の胡沖に、降伏の文を作らせた。

「吳郡孫晧叩頭死罪。昔漢室失御,九州幅裂,先人因時略有江南,遂阻山河,與魏乖隔。大晉龍興,德覆四海,闇劣偷安,未喻天命。至于今者,猥煩六軍,衡蓋露次,遠臨江渚。舉國震惶,假息漏刻,敢緣天朝,含弘光大。謹遣私署太常張夔等奉所佩璽綬,委質請命。」

「呉郡の孫晧が、申し上げます。漢室が滅びると、天下は分かれ、魏呉は隔たりました。晋が興り、徳が四海を蔽いましたが、私はバカなので天命を受け入れませんでした。いま六軍が遠征してきて、わが国は懼れています。ひそかに太常の張夔らに、佩している璽綬を献上させ、ご命令に従います」と。

壬寅,濬入于石頭。晧乃備亡國之禮,素車白馬,肉袒面縛,銜璧牽羊,大夫衰服,士輿櫬,率其偽太子瑾、瑾弟魯王虔等二十一人,造于壘門。濬躬解其縛,受璧焚櫬,送于京師。收其圖籍,封其府庫,軍無私焉。帝遣使者犒濬軍。

二月壬寅、王濬は石頭に入った。

『寰宇記』百二十四によると、当利浦はいまの鄂州の東十二里にあり、もとは揚浦といった。王濬が平呉のとき、ここで帆を上げたから、この名となった。王渾が王濬に「風向きが悪いから、後日に利とすべき(当利)」と行ったことから、この名になった。
武帝紀によると、三月壬辰(『三国志』三嗣主伝も同じ)、王濬の水軍が、建業の石頭に到達したとする。本紀はこの年の正月の己丑を朔とするから、三月に壬辰はない。王濬伝に従い、壬辰を壬寅に改めるべきである。もしくは、『文選』晋紀総論に引く干宝『晋紀』によると、元年四月、王濬は石頭に入ったとする。それならば、四月壬申が正しく(四月なら壬申はあり得るので)どちらが正しいか分からない。
『建康実録』を読んだとき、この日付の論争があり、これが王濬伝を読んだ動機。

孫晧は、亡国の礼をそなえ、偽太守の孫瑾と、その弟の魯王孫虔ら21人をつれて、塁門にきた。王濬は、みずから孫晧の自縛をとき、洛陽に送った。孫呉の図籍を入手し、その府庫を封印し、軍は私物化しなかった。武帝は、使者をやって王濬をねぎらった。

王渾との争い

初,詔書使濬下建平,受杜預節度,至秣陵,受王渾節度。預至江陵,謂諸將帥曰:「若濬得下建平,則順流長驅,威名已著,不宜令受制於我。若不能克,則無緣得施節度。」濬至西陵,預與之書曰:「足下既摧其西藩,便當徑取秣陵,討累世之逋寇,釋吳人於塗炭。自江入淮,逾于泗汴,泝河而上,振旅還都,亦曠世一事也。」濬大悅,表呈預書。

はじめ詔書によって、王濬に建平を下させ、杜預の節度を受けさせた。秣陵に至ると、王渾の節度を受けた。杜預は江陵に到ると、将帥らに言った。「もし王濬が建平を下せたら、流れにそって遠征し、すでに威名が表れるから、私の制を受けるのはよくない。もし(建平に)勝てねば、頼りがなくなり(威信が低下して)、私の節度を受け(続け)るだろう」と。
王濬が西陵に至ると、杜預は文書を送った。「きみはすでに西藩(呉領の荊州)をくだした。秣陵を取って、累世の悪党を討伐し、呉の人々を苦しみから救ってやれ。江水から淮水に入り、泗水・汴水をこえ、黄河を遡上して、洛陽に凱旋したら、偉業になる」と。王濬はよろこび、杜預の文書を上呈した。

王濬の名誉欲をくすぐり、そそのかしたのは、杜預でした。


及濬將至秣陵,王渾遣信要令暫過論事,濬舉帆直指,報曰:「風利,不得泊也。」王渾久破晧中軍,斬張悌等,頓兵不敢進。而濬乘勝納降,渾恥而且忿,乃表濬違詔不受節度,誣罪狀之。有司遂按濬檻車徵,帝弗許,詔讓濬曰:「伐國事重,宜令有一。前詔使將軍受安東將軍渾節度,渾思謀深重,案甲以待將軍。云何徑前,不從渾命,違制昧利,甚失大義。將軍功勳,簡在朕心,當率由詔書,崇成王法,而於事終恃功肆意,朕將何以令天下?」

王濬が秣陵に着きそうなとき、王渾は王濬を留めて、話し合おうとした。王濬は帆を指さし、「風が有利である。停泊できない」と。王渾は、時間をかけて孫晧の中軍を破り、張悌らを斬って、兵を留めて敢えて進まなかった。王濬は、勝ちに乗じて(孫晧の)降伏を受け入れたから、(功績を盗まれて)王渾は恥じ怒った。上表して「王濬は詔に違反して、安東将軍の王渾の節度を受けなかった」と罪状を告げた。有司は王濬を檻車で徴そうと考えたが、武帝は許さず、一方で詔で王濬をとがめた。「伐国のことは重大なのに、なぜ王渾の節度を受けなかったのか。かってに動いたらダメでしょう」と。

◆王濬による弁明

濬上書自理曰:臣前被庚戌詔書曰:「軍人乘勝,猛氣益壯,便當順流長騖,直造秣陵。」臣被詔之日,即便東下。又前被詔書云「太尉賈充總統諸方,自鎮東大將軍伷及渾、濬、彬等皆受充節度」,無令臣別受渾節度之文。臣自達巴丘,所向風靡,知孫晧窮踧,勢無所至。十四日至牛渚,去秣陵二百里,宿設部分,為攻取節度。前至三山,見渾軍在北岸,遣書與臣,可暫來過,共有所議,亦不語臣當受節度之意。臣水軍風發,乘勢造賊城,加宿設部分行有次第,無緣得於長流之中迴船過渾,令首尾斷絕。須臾之間,晧遣使歸命。

王濬は上書して、弁明した。「私は庚戌の詔を受け、『勢いに乗って秣陵を直撃せよ』と言われました。この詔を受けた日から、すぐに東下したのです。また前に詔で、『太尉の賈充が全体を統括し、鎮東大将軍の司馬伷・王渾・王濬・唐彬らは、それぞれ節度を受充せよ』と。私は王渾から節度を受けよという命令を受けていません。私が巴丘に達したとき、向かう所は風がなびくようで、孫晧は負けを悟りました。十四日に牛渚に至ると、秣陵から二百里の近さでした。さきに三山に至ると、王渾軍は北岸におり、しばらくしたら来て、話し合おうと言いました。王渾は私に『節度を受けよ』とは言わなかった。私は風の勢いに乗って、攻めてしまったのであり、(風が強いから)長江の流れに船をまわして留め、王渾と合流できる状況ではなかった。そのとき、孫晧が降伏してきたのです。

臣即報渾書,幷寫晧牋,具以示渾,使速來,當於石頭相待。軍以日中至秣陵,暮乃被渾所下當受節度之符,欲令臣明十六日悉將所領,還圍石頭,備晧越逸。又索蜀兵及鎮南諸軍人名定見。臣以為晧已來首都亭,無緣共合空圍。又兵人定見,不可倉卒,皆非當今之急,不可承用。中詔謂臣忽棄明制,專擅自由。伏讀嚴詔,驚怖悚慄,不知軀命當所投厝。豈惟老臣獨懷戰灼,三軍上下咸盡喪氣。臣受國恩,任重事大,常恐託付不效,孤負聖朝。故投身死地,轉戰萬里,被蒙寬恕之恩,得從臨履之宜。是以憑賴威靈,幸而能濟,皆是陛下神策廟算。臣承指授,效鷹犬之用耳,有何勳勞而恃功肆意,寧敢昧利而違聖詔。

私はすぐに王渾に返信して、あわせて孫晧からの降伏文書を写して、王渾に示しました。早く王渾を来させ(功績を共有するべく)石頭で待ち合わせようとしました。軍は日中に秣陵に至り、暮れに王渾が下した節度の府を受けました。明くる十六日から、私に全軍を領させ、石頭に戻って囲み、孫晧の逃亡に備えようと言うのです。私はすでに孫晧が出頭してくると考え、見識ある兵士らも、王渾の作戦は、緊急でなく(的外れで)従う必要がないと考えました。(私が王渾に逆らったというのは、誤解であり)詔で咎められたので、戦々恐々としています」

臣以十五日至秣陵,而詔書以十六日起洛陽,其間懸闊,不相赴接,則臣之罪責宜蒙察恕。假令孫晧猶有螳蜋舉斧之勢,而臣輕軍單入,有所虧喪,罪之可也。臣所統八萬餘人,乘勝席卷。晧以眾叛親離,無復羽翼,匹夫獨立,不能庇其妻子,雀鼠貪生,苟乞一活耳。而江北諸軍不知其虛實,不早縛取,自為小誤。臣至便得,更見怨恚,並云守賊百日,而令他人得之,言語噂𠴲,不可聽聞。

私は十五日に秣陵に至りました。しかし詔書は十六日に洛陽から出発しており、(事後的に発せられて未到着の詔に違反しても)私に罪はないはずです。もし孫晧が抵抗し、私が軽軍で突撃して失敗したなら、罪があるでしょう。しかし、私は八万を率い、勝ちに乗じて孫晧を圧倒したのです。孫晧は、味方に裏切られて孤立したので、私に降伏してきました。江北の諸郡は、その虚実を知らずに、私に罪があると言っているのです。

案春秋之義,大夫出疆,由有專輒。臣雖愚蠢,以為事君之道,唯當竭節盡忠,奮不顧身,量力受任,臨事制宜,苟利社稷,死生以之。若其顧護嫌疑,以避咎責,此是人臣不忠之利,實非明主社稷之福也。臣不自料,忘其鄙劣,披布丹心,輸寫肝腦,欲竭股肱之力,加之以忠貞,庶必掃除兇逆,清一宇宙,願令聖世與唐虞比隆。陛下粗察臣之愚款,而識其欲自效之誠,是以授臣以方牧之任,委臣以征討之事。雖燕主之信樂毅,漢祖之任蕭何,無以加焉。受恩深重,死且不報,而以頑疏,舉錯失宜。陛下弘恩,財加切讓,惶怖怔營,無地自厝,願陛下明臣赤心而已。

どうか私の言い分を理解してください。

渾又騰周浚書,云濬軍得吳寶物。濬復表曰:被壬戌詔書,下安東將軍所上揚州刺史周浚書,謂臣諸軍得孫晧寶物,又謂牙門將李高放火燒晧偽宮。輒公文上尚書,具列本末。又聞渾案陷上臣。臣受性愚忠,行事舉動,信心而前,期於不負神明而已。秣陵之事,皆如前所表,而惡直醜正,實繁有徒,欲構南箕,成此貝錦,公於聖世,反白為黑。

王渾もまた、周浚の文書を騰げて、「王濬の軍は、呉の宝物を略奪した」とチクった。王濬はふたたび上表した。「壬戌の詔書を受けました。安東将軍の王渾が、揚州刺史の周浚の文書を提出し、わが軍が孫晧の宝物を得て、また牙門将の李高は、孫晧に偽宮に放火したと報告しました。王渾は、高官にへつらって、事実をねじ曲げています。秣陵の事(私の行動の正当性)は、以前に申し上げたとおりであり、王渾による捏造です。

夫佞邪害國,自古而然。故無極破楚,宰嚭滅吳,及至石顯,傾亂漢朝,皆載在典籍,為世所戒。昔樂毅伐齊,下城七十,而卒被讒間,脫身出奔。樂羊既反,謗書盈篋。況臣頑疏,能免讒慝之口!然所望全其首領者,實賴陛下聖哲欽明,使浸潤之譖不得行焉。然臣孤根獨立,朝無黨援,久棄遐外,人道斷絕,而結恨強宗,取怨豪族。以累卵之身,處雷霆之衝;繭栗之質,當豺狼之路,其見吞噬,豈抗脣齒!
夫犯上干主,其罪可救,乖忤貴臣,則禍在不測。故朱雲折檻,嬰逆鱗之怒,慶忌救之,成帝不問。望之、周堪違忤石顯,雖闔朝嗟歎,而死不旋踵。此臣之所大怖也。今渾之支黨姻族,內外皆根據磐㸦,並處世位。聞遣人在洛中,專共交構,盜言孔甘,疑惑觀聽。夫曾參之不殺人,亦以明矣,然三人傳之,其母投杼。今臣之信行,未若曾參之著;而讒構沸騰,非徒三夫之對,外內扇助,為二五之應。夫猛獸當塗,麒麟恐懼,況臣脆弱,敢不悚慄!


偽吳君臣,今皆生在,便可驗問,以明虛實。前偽中郎將孔攄說,去二月武昌失守,水軍行至。晧案行石頭還,左右人皆跳刀大呼云:「要當為陛下一死戰決之。」晧意大喜,謂必能然,便盡出金寶,以賜與之。小人無狀,得便持走,晧懼,乃圖降首。降使適去,左右劫奪財物,略取妻妾,放火燒宮。晧逃身竄首,恐不脫死,臣至,遣參軍主者救斷其火耳。周浚以十六日前入晧宮,臣時遣記室吏往視書籍,浚使收縛。若有遺寶,則浚前得,不應移蹤後人,欲求苟免也。

偽呉の君臣は、いまも存命ですから、彼らに確認してください。前の偽の(呉朝の)中郎将の孔攄が言うには、さる二月に、呉領の武昌は守りを失い(陥落し)水軍は進みました。孫晧は石頭から還ると、左右の人々は「陛下のために死戦する」と誓ったので、孫晧が喜んで金宝を分け与えました。
孫晧が降伏すると、呉臣たちは財物・妻妾を略奪し、宮殿に放火しました(財宝・妻妾・宮殿が喪失したのは、わが軍のせいではありません)。孫晧が逃亡すると、彼が落命せぬよう、参軍に消化させました。周浚は、十六日に孫晧の宮殿に入りました。私はそのとき、記室吏(記録係)に帳簿を確認させましたが、その吏は周浚に捕らわれました。もしも紛失した財物があるなら、周浚が手に入れたのであり、後から入った私が奪ったのではありません」

臣前在三山得浚書云:「晧散寶貨以賜將士,府庫略虛。」而今復言「金銀篋笥,動有萬計」,疑臣軍得之。言語反覆,無復本末。臣復與軍司張牧、汝南相馮紞等共入觀晧宮,乃無席可坐。後日又與牧等共視晧舟船,渾又先臣一日上其船。船上之物,皆渾所知見。臣之案行,皆出其後,若有寶貨,渾應得之。

以前に私は、三山にいるとき周浚の文書を得て、「孫晧は宝貨を散らして賞賜に賜り、府庫はカラである」とありました。しかしいまでは、「金銀財宝は、ややすれば万を数えた」と言い、私が奪ったと疑います。前後で、発言が矛盾しています。私は、軍司の張牧・汝南相の馮紞らとともに孫晧の宮殿に入り、座る席もありませんでした。後日、張牧らとともに孫晧の舟船を見ました。王渾は私より一日早く、孫晧の船に上がりました。船上の荷物は、王渾が知っているはずです。もしも財宝があったなら、王渾が手に入れたことになります。

又臣將軍素嚴,兵人不得妄離部陣間。在秣陵諸軍,凡二十萬眾。臣軍先至,為土地之主。百姓之心,皆歸仰臣,臣切敕所領,秋毫不犯。諸有市易,皆有伍任證左,明從券契,有違犯者,凡斬十三人,皆吳人所知也。餘軍縱橫,詐稱臣軍,而臣軍類皆蜀人,幸以此自別耳。豈獨浚之將士皆是夷齊,而臣諸軍悉聚盜跖耶!時有八百餘人,緣石頭城劫取布帛。臣牙門將軍馬潛即收得二十餘人,幷疏其督將姓名,移以付浚,使得自科結,而寂無反報,疑皆縱遣,絕其端緒也。

私は厳格に軍を統制し、むやみに兵士が部署を移動しません。秣陵にいるとき、二十万の兵がおり、現地の人々のために行動しました。現地の人々から指示され、わずかな略奪もしませんでした。市場で不正をした十三人を斬り、これは呉人が知っています。他軍が横暴を働いて、王濬軍だと擬装しても、わが王濬軍はみな蜀人なので、幸いにも区別がつきます。なぜ周浚の兵士が整然とし、わが王濬軍だけが窃盗をしましょうか。八百余人が、石頭城で布帛を盗みました。わが牙門将軍の馬潜が二十余人をとらえ、その督将の姓名が分からないから、周浚に引き渡したら、以後の返答がありませんでした(盗みは周浚の指図のようです)。

又聞吳人言,前張悌戰時,所殺財有二千人,而渾、浚露布言以萬計。以吳剛子為主簿,而遣剛至洛,欲令剛增斬級之數。可具問孫晧及其諸臣,則知其定審。若信如所聞,浚等虛詐,尚欺陛下,豈惜於臣!云臣屯聚蜀人,不時送晧,欲有反狀。又恐動吳人,言臣皆當誅殺,取其妻子,冀其作亂,得騁私忿。謀反大逆,尚以見加,其餘謗𠴲,故其宜耳。渾案臣「瓶磬小器,蒙國厚恩,頻繁擢敘,遂過其任」。渾此言最信,內省慚懼。今年平吳,誠為大慶,於臣之身,更受咎累。既無孟側策馬之好,而令濟濟之朝有讒邪之人,虧穆穆之風,損皇代之美。由臣頑疏,使致於此,拜表流汗,言不識次。

また呉人の発言を聞けば、張悌と戦ったとき、殺された呉兵は二千人でしたが、王渾・周浚は万を以て数えるほど殺したと報告し、戦果を水増ししました。周浚は、うその報告をしているのです。

濬至京都,有司奏,濬表既不列前後所被七詔月日,又赦後違詔不受渾節度,大不敬,付廷尉科罪。詔曰:「濬前受詔徑造秣陵,後乃下受渾節度。詔書稽留,所下不至,便令與不受詔同責,未為經通。濬不即表上被渾宣詔,此可責也。濬有征伐之勞,不足以一眚掩之。」有司又奏,濬赦後燒賊船百三十五艘,輒敕付廷尉禁推。詔曰「勿推」。拜濬輔國大將軍,領步兵校尉。舊校唯五,置此營自濬始也。有司又奏,輔國依比,未為達官,不置司馬,不給官騎。詔依征鎮給五百大車,增兵五百人為輔國營,給親騎百人、官騎十人,置司馬。封為襄陽縣侯,邑萬戶。封子彝楊鄉亭侯,邑千五百戶,賜絹萬匹,又賜衣一襲、錢三十萬及食物。

王濬は京都に至り、有司が奏した。王濬は、前後に受けた七つの詔の月日をならべず、詔に違反して王渾の節度を受けなかったから、帝位に付されて罪を科された。詔して、「王濬はさきに詔を受けて秣陵におり、のちに王渾の節度を受けよと命じた。詔書は稽留され、発せられた詔は至らないため、詔に逆らったのと同じ罪を犯した。王濬は……

濬自以功大,而為渾父子及豪強所抑,屢為有司所奏,每進見,陳其攻伐之勞,及見枉之狀,或不勝忿憤,徑出不辭。帝每容恕之。益州護軍范通,濬之外親也,謂濬曰:「卿功則美矣,然恨所以居美者,未盡善也。」濬曰:「何謂也?」通曰:「卿旋旆之日,角巾私第,口不言平吳之事。若有問者,輒曰:『聖主之德,羣帥之力,老夫何力之有焉!』[六]老夫何力之有焉 「夫」,各本誤作「父」,今從宋本。通鑑八一、通志一二二均作「夫」。如斯,顏老之不伐,龔遂之雅對,將何以過之。藺生所以屈廉頗,王渾能無愧乎!」濬曰:「吾始懼鄧艾之事,畏禍及,不得無言,亦不能遣諸胸中,是吾褊也。」

時人咸以濬功重報輕,博士秦秀、太子洗馬孟康、前溫令李密等並表訟濬之屈。帝乃遷濬鎮軍大將軍,加散騎常侍,領後軍將軍。王渾詣濬,濬嚴設備衞然後見之,其相猜防如此。

王濬は功績が重いのに報償が軽いから、博士の秦秀・太子洗馬の孟康・前の温令の李密らは、不当さを訴えた。武帝は、王濬を鎮軍大将軍とし、散騎常侍を加え、後軍将軍を領させた。王渾が王濬に会うと、王濬は護衛を設けてから会い、警戒はこのようであった。

濬平吳之後,以勳高位重,不復素業自居,乃玉食錦服,縱奢侈以自逸。其有辟引,多是蜀人,示不遺故舊也。後又轉濬撫軍大將軍、開府儀同三司,加特進,散騎常侍、後軍將軍如故。太康六年卒,時年八十,諡曰武。葬柏谷山,大營塋域,葬垣周四十五里,面別開一門,松柏茂盛。子矩嗣。

王濬は呉を平定した後、勲功が高く官位は重くなり、衣食を豪奢にして過ごした。辟引した(取り立てた)者は、おおくが蜀の人で、故旧(赴任中に構築した人間関係)を失わないことを示した。

西晋初期の派閥には、ふつうに魏晋の内部で昇進した人以外に、旧蜀臣と、彼らを取り立てる晋臣がおり、旧呉臣と、彼らを取り立てる晋臣がいる。こういう、人間関係の複雑さが、西晋初の特徴。

撫軍大將軍・開府儀同三司に転じ、特進・散騎常侍を加えられ、後軍將軍はもとのまま。太康六年に卒し、八十歳であった。武と謚され、柏谷山に葬られ、おおいに塋域を営み、葬垣の周囲は四十五里あり、面は別に一門を開き、松柏が茂盛である。子の矩が嗣いだ。170709

『寰宇記』六に、弘農県の柏谷亭がある。漢文帝が、まだ身分が低いときにここに遊びにきた。ここに王濬が葬られ、塚はいまだに(『寰宇記』の編纂時にも)存在する。

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『晋書』巻三 武帝紀 太康元年

十一月,大舉伐吳,遣鎮軍將軍、琅邪王伷出涂中,[〇]安東將軍王渾出江西,建威將軍王戎出武昌,平南將軍胡奮出夏口,鎮南大將軍杜預出江陵,龍驤將軍王濬、廣武將軍唐彬率巴蜀之卒浮江而下,東西凡二十餘萬。以太尉賈充為大都督,行冠軍將軍楊濟為副,總統眾軍。

十一月、大挙して伐呉した。

『文館詞林』六六二は伐呉の詔を載せる。長文、はぶく。

鎮軍将軍・琅邪王の司馬伷は涂中に出た。

司馬伷伝では鎮東大将軍に作り、武帝紀 泰始五年・太康三年からも「鎮東大将軍」が正しいと分かる。校勘によると、鎮軍(将軍)は司馬攸であり、司馬伷とともに渡江はしなかった。
『呉志』孫晧伝も同じ。『水経注釈』三十二補 滁水によると、『寰宇記』に……。『三国志』によると呉の赤烏三年、堂邑の滁塘を作って北道を淹した。云々。

安東將軍の王渾は江西に出て、建威将軍の王戎は武昌に出て、平南將軍の胡奮は夏口に出て、鎮南大將軍の杜預は江陵に出て、龍驤將軍の王濬・廣武將軍の唐彬は巴蜀の卒を率いて江に浮びて下り、、東西全軍で二十余万だった。太尉の賈充を大都督とし、行冠軍將軍の楊済を副(都督)とし、衆軍を総統させた。

十二月,馬隆擊叛虜樹機能,大破,斬之,涼州平。肅慎來獻楛矢石砮。

十二月、馬隆が叛虜の樹機能を撃ち、おおいに破ってこれを斬った。涼州は平定された。粛慎が来て楛矢・石砮を献じた。

太康元年春正月己丑朔,五色氣冠日。癸丑,王渾克吳尋陽賴鄉諸城,獲吳武威將軍周興。

太康元年春正月己丑朔、五色の気が日に冠した。癸丑、王渾は呉の尋陽の頼郷の諸城で克って、呉の武威将軍の周興を捕らえた。

二月戊午,王濬、唐彬等克丹楊城。庚申,又克西陵,殺西陵都督、鎮軍將軍留憲[一],征南將軍成璩,西陵監鄭廣。

二月戊午、王濬・唐彬らは丹楊城で克った。庚申、さらに西陵で克ち、西陵都督・鎮軍将軍の留憲・征南將軍の成璩・西陵監の鄭広を捕らえた。

王濬伝は、「鎮軍」を「鎮南」に作る。『広韻』十八尤によると、留という姓は……。後漢末に会稽に避難して、東陽に居して郡の豪族となった。『呉志』孫峻伝 注引『呉書』によると、留賛は留憲の同族とすべきである。
校勘によると、『晋書』杜預伝・『冊府元亀』三五〇では、「劉憲」に作る。


壬戌,濬又克夷道樂鄉城,殺夷道監陸晏、水軍都督陸景。甲戌,杜預克江陵,斬吳江陵督伍延;[二]平南將軍胡奮克江安。於是諸軍並進,樂鄉、荊門諸戍相次來降。乙亥,以濬為都督益、梁二州諸軍事,

壬戌、濬はさらに夷道の楽郷城で克ち、夷道監の陸晏・水軍都督の陸景を殺した。

『水経』江水注に、楽郷城が見え、陸抗が築き、のちに王濬に攻められた地とする。『玉海』十九に引く『元和郡県志』によると、呉の建衡三年、陸抗は楽郷の城を築き、のちに朱然が修繕して守った。王濬が楽郷を攻め、水軍督の陸景・平西将軍の施洪は城をもって降ったと。『呉志』は中夏督に作り、注引『会稽典録』も同じ。
陸抗伝によると、壬戌に陸晏は王濬に殺された。癸亥、陸景もまた殺害されたと、二日に分けて書いてある。『晋書』王濬伝によると、壬戌に陸晏を捕らえ、乙丑に陸景を捕らえたとし、(陸景が敗れた)癸亥を乙丑に作って、差異がある。

甲戌、杜預は江陵で克ち、呉の江陵督の伍延を斬った。

校勘によると、各本は「王延」に作るが、『晋書』杜預伝・『呉志』孫晧伝・『冊府元亀』百二十一・『資治通鑑』八十一はいずれも「伍延」に作る。
元本では「五延」に作る。『諸子考異』二によると、孫晧伝は、「杜預が江陵督の伍延を斬った」とする。杜預伝は、「呉の督将である伍延」とする。つまり、「王」字は誤りである。「五」は「伍」に通じるから、元本に従うべしとも。

平南將軍の胡奮は江安で克った。こうして諸軍は並進し、楽郷・荊門の諸軍はあいついで来降した。乙亥、王濬を都督益・梁二州諸軍事とした。

復下詔曰:「濬、彬東下,掃除巴丘,與胡奮、王戎共平夏口、武昌,順流長騖,直造秣陵,與奮、戎審量其宜。杜預當鎮靜零、桂,懷輯衡陽。大兵既過,荊州南境固當傳檄而定,預當分萬人給濬,七千給彬。夏口既平,奮宜以七千人給濬。武昌既了,戎當以六千人增彬。太尉充移屯項,總督諸方。」濬進破夏口、武昌,遂泛舟東下,所至皆平。王渾、周浚與吳丞相張悌戰于版橋,大破之,斬悌及其將孫震、沈瑩,傳首洛陽。孫晧窮蹙請降,送璽綬於琅邪王伷。

復た詔を下して、「王濬・唐彬は東下し、巴丘を掃除し、胡奮・王戎とともに夏口・武昌を平定した。流れに乗って秣陵を襲撃せよ。胡奮・王戎とともに、適宜、分担を話し合うように。杜預は零陵・桂陽を鎮静し、衡陽を懐輯せよ。大兵が通過した後、荊州の南境には(軍で攻撃せず)檄文を伝えて安定させよ。杜預は1万人を分けて王濬に、7千人を分けて唐彬にわたせ。夏口が平定されたら、胡奮は7千人を王濬にわたせ。武昌が平定されたら、6千人を唐彬にわたせ。太尉の賈充は移って項県に屯し、諸方を総督せよ」

荊州の平定が終わったら、可能な限り、揚州の攻撃に兵を回す。揚州の攻撃を任されたのは、王濬・唐彬である。杜預・胡奮・王戎は、王濬・唐彬に兵を回して、彼ら自身は、荊州の安定に努めるという役割。

王濬は進んで夏口・武昌を破り、船を浮かべて東下し、至る所はすべて平らいだ。(一方その頃)王渾・周浚は、呉の丞相である張悌と版橋で戦い、おおいに破り、張悌とその将の孫震・沈瑩を破り、洛陽に送った。

『呉志』孫晧伝 注引 干宝『晋紀』によると、呉の丞相の軍師の張悌・護軍の孫震・丹陽太守の沈瑩は、……『呉志』からの引用は省く。
『御覧』四百十七 『襄陽記』によると、晋が伐呉すると、張悌は渡江して戦った。呉軍は大敗した。諸葛靚は過りて張悌を迎えた。張悌は申ことを肯んぜず、垂泣して、「仲思、今日が私の死ぬ日だ。社稷に殉じるから、遁走することはできないのだ」と言った。

孫晧は窮蹙して降伏を請い、璽綬を琅邪王の司馬伷に送った。

『御覧』六百八十二『拾遺録』によると、太康元年、孫晧は六金璽を送った。ときに(呉に)玉工(玉材の加工職人)がおらず、ゆえに金で印璽を作ったという。


三月壬寅,王濬以舟師至于建鄴之石頭[三],孫晧大懼,面縳輿櫬,降于軍門。濬杖節解縛焚櫬,送于京都。收其圖籍,克州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬。其牧守已下皆因吳所置,除其苛政,示之簡易,吳人大悅。乙酉[四],大赦,改元,大酺五日,恤孤老困窮。

三月壬寅、王濬は水軍で建鄴の石頭に至った。

三月壬寅は、各本はいずれも「壬申」に作る。しかし、三月は戊子朔なので、壬申は月内にない。王濬伝に載せる、石頭に入った後におこなった上書に、「十五日に秣陵に至る」とある。十五日は壬寅なので、壬寅が正しい。
『北堂書鈔』百十九 王隠『晋書』によると、孫晧は面縛して、太子を連れて降った。『後漢書』公孫述伝 注引 干宝『晋紀』によると、呉王孫晧は、子の孫瑾を率いて、泥首・面縛して王濬に降った。
『文選』晋紀総論に引く干宝『晋紀』は、元年正月に王濬が石頭に入ったという。四月は「三月」に作るべきである。『三国志考証』七によると、三月朔は戊子なので、十五日のことは壬申でなく壬寅とすべきである。
あとは、『晋書斠注』は、石頭の位置について。はぶく。

孫晧は大いに懼れ、面縳して輿櫬し、軍門に降った。王濬は節を杖し縛を解き櫬を焚き、京都に送った。その図籍を収めた。

『呉志』孫晧伝に引く『晋陽秋』によると、王濬は図籍・戸数をおさめた。米穀は280万斛、舟船は5千余であったという。『晋書』は男女の口数(人数)を記すが、米穀・舟船の記載がないから、モレているという。

州4・郡43・

孫晧伝に引く『晋陽秋』は、郡42とする。『初学記』八に引く『括地志』によると、平呉して43郡を得たという。カウントの記事ははぶき、『晋書斠注』の結論は、『晋書』武帝紀の郡43が正しく、郡42とする『晋陽秋』は誤りである。

県313・戸523千・

『通典』七は、「戸五十三万」に作るという。

吏32千・兵230千・男女口2300千である。州牧・太守より以下、すべて呉が配置したままとし、その苛政を除き、簡易を示したから、呉人は大いに悦んだ。
乙酉、大赦して改元した。大いに酺すること5日、孤老・困窮を恤んだ。

三月は戊子朔なので、乙酉がない。『資治通鑑』は四月乙酉に作り、それならば四月二十九日となる。
『晋書校文』一によると、三月には乙酉がないから、「乙卯」に作るべきか。


夏四月,河東、高平雨雹,傷秋稼。遣兼侍中張側、黃門侍郎朱震分使揚越,慰其初附。白麟見于頓丘。三河、魏郡、弘農雨雹,傷宿麥。
五月辛亥,封孫晧為歸命侯,拜其太子為中郎,諸子為郎中。吳之舊望,隨才擢敘。孫氏大將戰亡之家徙於壽陽,將吏渡江復十年,百姓及百工復二十年。

夏四月、河東・高平で雹が降り、秋稼を傷つけた。

五行志は、三月に霜雹がふったとする。

兼侍中の張側・黄門侍郎の朱震を、分けて揚越への使者とし、初めて晋に従った者たちを慰した。
五月辛亥、孫晧を帰命侯に封じ、

孫晧伝によると、太康元年四月甲申、詔したと。はぶく。『通鑑』・『晋紀』注『三十国春秋』も、四月甲申に帰命侯に封じたという。日付が異なる。

太子を中郎とし、諸子を郎中とした。呉の旧望は、才に随って叙に擢した。孫氏の大将で戦死した者の家族は、寿陽に徙した。渡江した将吏は10年の免税、百姓および百工は20年の免税とした。

丙寅,[五]帝臨軒大會,引晧升殿,羣臣咸稱萬歲。丁卯,薦酃淥酒于太廟。郡國六雹,傷秋稼。庚午,詔諸士卒年六十以上罷歸于家。庚辰,以王濬為輔國大將軍、襄陽侯,杜預當陽侯,王戎安豐侯,唐彬上庸侯,賈充、琅邪王伷以下增封。於是論功行封,賜公卿以下帛各有差。

丙寅、

五月は丁亥朔なので、五月に丙寅はない。丙寅と、その下にある丁卯・庚午・庚辰・丁丑・甲申は、すべて六月である。なので、「六月」二字を、この「丙寅」の上に置くべきである。庚辰は六月二十五日で、丁丑は二十二日となるから、日付が逆転している。

武帝紀は軒に臨んで大會し、晧を引いて殿に升らせ、群臣はみな萬歲を稱えた。

『類聚』三十九に引く『晋起居注』によると、武帝は太康元年に詔して、天下統一を祝った。五月庚寅、軒に臨んで大極殿で大会した。これによると、『晋書』武帝紀は、丙寅を六月とするのでなく、丙寅を庚寅と改めたほうが整合する。
『呉志』宗室伝に引く干宝『晋紀』によると、孫秀は晋の天下統一の祝賀に出席せず、呉の滅亡を歎いた。孫策は一校尉から身を興して、云々。

丁卯、酃淥酒を太廟に薦めた。郡國六で雹がふり、秋稼を傷つけた。庚午、詔して諸々の士卒の年六十以上を罷めて家に帰した。庚辰、王濬輔国大将軍・襄陽侯とし、杜預を當陽侯、王戎を安豊侯、唐彬を上庸侯とし、賈充・琅邪王伷より以下を増封した。功を論じ封を行い、公卿以下に帛を賜はること各々差有り。

六月丁丑,初置翊軍校尉官。封丹水侯睦為高陽王。甲申,東夷十國歸化。秋七月,虜軻成泥寇西平、浩亹,殺督將以下三百餘人。東夷二十國朝獻。庚寅,以尚書魏舒為尚書右僕射。八月,車師前部遣子入侍。己未,封皇弟延祚為樂平王。白龍三見于永昌。九月,羣臣以天下一統,屢請封襌,帝謙讓弗許。冬十月丁巳,除五女復。十二月戊辰,廣漢王贊薨。

呉のことは終わったので、また後日。170713

この史料の校勘

[〇]遣鎮軍將軍琅邪王伷出涂中 周校:「鎮軍將軍,當作鎮東大將軍,據泰始五年、太康三年及本傳文知之。」按:周說當是,吳志孫晧傳亦作「鎮東大將軍司馬伷」,此時鎮軍為司馬攸,與伷無涉。
[一]鎮軍將軍留憲 斠注:「王濬傳『鎮軍』作『鎮南』。」按:本書杜預傳、冊府元龜以下簡稱冊府三五0「留憲」作「劉憲」。
[二][二六]斬吳江陵都督伍延 「伍延」,各本皆作「王延」。按:本書杜預傳、吳志孫晧傳、冊府一二一、通鑑八一皆作「伍延」,今據改。參周校及洪頤煊諸史考異。
[三]三月壬寅至石頭 「壬寅」,各本皆作「壬申」。按:三月戊子朔,無壬申。校文云,王濬傳載濬入石頭後上書有「以十五日至秣陵」語,十五日為壬寅,則「申」當為「寅」字之誤。今據改。
[四]乙酉 三月戊子朔,無乙酉。通鑑八一作「四月乙酉」,為四月二十九日。
[五]丙寅 五月丁亥朔,無丙寅。丙寅及此下丁卯、庚午、庚辰、丁丑、甲申,皆在六月內,下文「丁丑」前「六月」二字應在「丙寅」上。又庚辰為六月二十五日,丁丑為二十二日,日序亦倒。

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『晋書』巻四十二 王渾伝 伐呉まで

王渾 字玄沖,太原晉陽人也。父昶,魏司空。渾沈雅有器量。襲父爵京陵侯,辟大將軍曹爽掾。爽誅,隨例免。起為懷令,參文帝安東軍事,累遷散騎黃門侍郎、散騎常侍。咸熙中為越騎校尉。

王渾は字を玄沖、太原晉陽の人である。父の王昶は、魏の司空である。

『三国志』王昶伝によると、王昶は字を文舒といい、武観亭侯に封じられ、穆侯と謚された。

王渾は沈雅で器量あり。父の爵を襲って京陵侯となり、大将軍の曹爽に辟されて大将軍掾となった。曹爽が誅されると、例にしたがい免じられた。起ちて懐令となり、文帝の安東軍事に参じ、累ねて散騎黃門侍郎、散騎常侍に遷った。咸熙中、越騎校尉となった。

『晋書斠注』はスルーしている。


武帝受禪,加揚烈將軍,遷徐州刺史。時年荒歲饑,渾開倉振贍,百姓賴之。泰始初,增封邑千八百戶。久之,遷東中郎將,監淮北諸軍事,鎮許昌。數陳損益,多見納用。

武帝紀が受禅すると、揚烈将軍を加えられ、徐州刺史に遷った。

『水経』泗水注によると、下邳の大城の内に、司徒の王渾碑がある。それによると、王渾はかつて刺史となり、ゆえにこの碑を下邳に作ったという。

饑饉のときに開倉して振給し、百姓に頼られた。泰始初、1800戸を増封された。しばらくして、東中郎将に遷り、淮北諸軍事を監し、許昌に鎮した。しばしば損益をのべ、多く採用された。

轉征虜將軍、監豫州諸軍事、假節,領豫州刺史。渾與吳接境,宣布威信,前後降附甚多。吳將薛瑩、魯淑眾號十萬,淑向弋陽,瑩向新息。時州兵並放休息,眾裁一旅,浮淮潛濟,出其不意,瑩等不虞晉師之至。渾擊破之,以功封次子尚為關內侯。

征虜将軍に転じ、豫州諸軍事を監し、假節・領豫州刺史。王渾は呉と境界を接し、威信を宣布したから、前後に降附するものがとても多かった。呉将の薛瑩・魯淑は、衆十万と号し、魯淑は弋陽に向かい、薛瑩は新息に向かった。

王濬伝では、「光禄勲の薛瑩」に作る。『隋書』経籍志に、晋の散騎常侍の薛瑩『後漢記』がある。晋に降ったのち、散騎常侍になったのだろうと。

ときに(王渾の豫州の)州兵はみな持ち場を離れて休息していたが。王渾は、一旅を割いて、淮水に浮かぶ済水に潜み、呉軍の不意を突いた。薛瑩らは晋軍の到着を、予期していなかった。王渾はこれを撃破し、その功績によって次子の王尚が関内侯に封じられた。

『十七史商榷』四十八によると、末子もしくは長子の王尚は、早くに亡くなり、次子の王済が嗣いだ。この記述と矛盾する。


遷安東將軍、都督揚州諸軍事,鎮壽春。吳人大佃皖城,圖為邊害。渾遣揚州刺史應綽督淮南諸軍攻破之,并破諸別屯,焚其積穀百八十餘萬斛、稻苗四千餘頃、船六百餘艘。渾遂陳兵東疆,視其地形險易,歷觀敵城,察攻取之勢。

安東將軍に遷り、揚州諸軍事を都督し、寿春に鎮した。呉人は大いに皖城で佃し、国境を侵害しようと計画した。王渾は揚州刺史の応綽をつかわし、淮南の諸軍を督してこれを攻め破らせ、さらに諸々の別屯を破らせた。その積穀の百八十餘萬斛・稲苗四千餘頃・船六百餘艘を焚いた。王渾はついに兵を東の国境にならべ、その地形の険易を視察し、敵の城を歴観し、攻取の勢を察した。

呉の国境方面で、王渾はずっと軍事長官をしていた。これは、王濬に手柄を奪われたら、ものすごく怨む気持ちも、分からないでもない。


及大舉伐吳,渾率師出橫江,遣參軍陳慎、都尉張喬攻尋陽瀨鄉,又擊吳牙門將孔忠,皆破之,獲吳將周興等五人。又遣殄吳護軍李純據高望城,討吳將俞恭,破之,多所斬獲。吳厲武將軍陳代、平虜將軍朱明懼而來降。吳丞相張悌、大將軍孫震等率眾數萬指城陽,渾遣司馬孫疇、揚州刺史周浚擊破之,臨陣斬二將,及首虜七千八百級,吳人大震。

大挙して伐呉することになると、王渾は師を率いて横江に出た。

『読史方輿紀要』三によると、横江はいまの和州の東南二十五里にあり、大江のことである。

参軍の陳慎・都尉の張喬をつかわして尋陽の瀬郷を攻め、また呉の牙門将の孔忠を撃たせ、どちらも破った。呉将の周興ら5人を捕らえた。さらに殄呉護軍の李純を高望城に拠らせ、呉将の俞恭を破って、多くを斬獲した。

『東晋疆域志』によると、堂邑件に高望城がある。

呉の厲武将軍の陳代・平虜将軍の朱明は、懼れて来降した。吳の丞相の張悌・大将軍の孫震らは、数万をひきいて城陽をめざした。王渾は、司馬の孫疇・揚州刺史の周浚を遣わして、これを撃破した。

揚州刺史は、上では応綽で、ここでは周浚に交替している。

陣に臨んで2将(張悌・孫震)を斬り、首虜は七千八百級に及び、呉人は大いに震れた。

孫晧司徒何植、建威將軍孫晏送印節詣渾降。既而王濬破石頭,降孫晧,威名益振。明日,渾始濟江,登建鄴宮,釃酒高會。自以先據江上,破晧中軍,案甲不進,致在王濬之後。意甚愧恨,有不平之色,頻奏濬罪狀,時人譏之。

孫晧の司徒である何植・建威将軍の孫晏は、印節を送って詣って王渾に降った。既にして王濬は石頭を破り、孫晧を降し、威名はますます振った。翌日、王渾ははじめて渡江し、建鄴宮に登り、釃酒して高會した。

伐呉のカレンダーにおいて重要なのは、この「翌日」の表記くらいか。

自ら先に江上に拠り、孫晧の中軍を破ったが、甲を案じて進まず、王濬に遅れをとった。意ははなはだ愧恨し、不平の色あり、頻りに王濬の罪状を奏したから(この上奏が不当な内容なため)時人に譏られた。

『文選』晋紀総論 注引 干宝『晋紀』によると、王渾は愧じること久しく、長江に造(いた)ったが、王濬に先を越されたから、「王濬が詔に違反して、わが節度を受けなかった」と批判した。


帝下詔曰:「使持節、都督揚州諸軍事、安東將軍、京陵侯 王渾 ,督率所統,遂逼秣陵,令賊孫晧救死自衞,不得分兵上赴,以成西軍之功。又摧大敵,獲張悌,使晧塗窮勢盡,面縛乞降。遂平定秣陵,功勳茂著。其增封八千戶,進爵為公,封子澄為亭侯、弟湛為關內侯,賜絹八千匹。」

武帝は詔を下した。「使持節・都督揚州諸軍事・安東將軍・京陵侯の王渾は、統ぶる所を督率し、ついに秣陵に逼り、賊の孫晧は死を救って自衛したくなるまで追いこんだが、兵を分けて上赴できず、西軍(王濬)に功績を成させた。さらに大敵をやぶり、張悌を捕らえ、孫晧を窮地においこみ、呉軍の全滅まで追いこみ、面縛させて降伏を乞わせた。ついに秣陵を平定でき、功績は明らかである。8千戸と増封し、爵位を公にすすめる。子の王澄を亭侯に封じ、弟の王湛を関内侯とし、絹8千匹を賜はる」と。

『魏志』王昶伝 注引『晋書』(だれの作った本であるかは不明)によると、一子を江陵侯に封じた。


轉征東大將軍,復鎮壽陽。渾不尚刑名,處斷明允。時吳人新附,頗懷畏懼。渾撫循羇旅,虛懷綏納,座無空席,門不停賓。於是江東之士莫不悅附。

征東大将軍に転じ、ふたたび寿陽に鎮した。

武帝紀では、「征東」を「征南」に作る。

王渾は刑名をたっとばず、処断は明允である。

『書鈔』七十二に引く王隠『晋書』は、「処断」を「情断」に作る。

ときに呉人が新たに帰付したばかりなので、ひどく畏懼を懐いた。王渾は羇旅を撫循し、虚懐に綏納したから、座は空席がなく、門は賓が止まなかった。ここにおいて、江東の士は、悦んで従わない者がなかった。170713

『書鈔』三十四・『御覧』四百七十五に引く王隠『晋書』によると、「虚懐綏納」を「労謙接納」に作り、「悅附」を「愛敬」に作る。
『書鈔』七十二に引く王隠『晋書』もまた、「労謙接納」に作り、「空席」を「重席」に作る。『御覧』四百七十五に引く王隠『晋書』は「悦附」を「敬愛」に作る。……など、王隠『晋書』に基づいて、唐修『晋書』が作られたと思われる。唐修は「附」字が重ねて出てくるから、転写により、文が劣化していると思われる。

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『晋書』巻四十二 唐彬伝

唐彬 字儒宗,魯國鄒人也。父臺,太山太守。彬有經國大度,而不拘行檢。少便弓馬,好游獵,身長八尺,走及奔鹿,強力兼人。晚乃敦悅經史,尤明易經,隨師受業,還家教授,恒數百人。初為郡門下掾,轉主簿。刺史王沈集諸參佐,盛論距吳之策,以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢,沈善其對。又使彬難言吳未可伐者,而辭理皆屈。還遷功曹,舉孝廉,州辟主簿,累遷別駕。 彬忠肅公亮,盡規匡救,不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事,于時僚佐皆當世英彥,見彬莫不欽悅,稱之於文帝,薦為掾屬。帝以問其參軍孔顥,顥忌其能,良久不答。陳騫在坐,斂板而稱曰:「彬之為人,勝騫甚遠。」帝笑曰:「但能如卿,固未易得,何論於勝。」因辟彬為鎧曹屬。帝問曰:「卿何以致辟?」對曰:「修業陋巷,觀古人之遺迹,言滿天下無口過,行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰:「名不虛行。」他日,謂孔顥曰:「近見 唐彬 ,卿受蔽賢之責矣。」 初,鄧艾之誅也,文帝以艾久在隴右,素得士心,一旦夷滅,恐邊情搔動,使彬密察之。彬還,白帝曰:「鄧艾忌克詭狹,矜能負才,順從者謂為見事,直言者謂之觸迕。雖長史司馬,參佐牙門,答對失指,輒見罵辱。處身無禮,大失人心。又好施行事役,數勞眾力。隴右甚患苦之,喜聞其禍,不肯為用。今諸軍已至,足以鎮壓內外,願無以為慮。」 俄除尚書水部郎。泰始初,賜爵關內侯。出補鄴令,彬道德齊禮,朞月化成。遷弋陽太守,明設禁防,百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇,監軍位缺,朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立,立曰:「宗、彬俱不可失。然彬多財欲,而宗好酒,惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足,酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事,加廣武將軍。上征吳之策,甚合帝意。 後與王濬共伐吳,彬屯據衝要,為眾軍前驅。每設疑兵,應機制勝。陷西陵、樂鄉,多所擒獲。自巴陵、沔口以東,諸賊所聚,莫不震懼,倒戈肉袒。彬知賊寇已殄,孫晧將降,未至建鄴二百里,稱疾遲留,以示不競。果有先到者爭物,後到者爭功,于時有識莫不高彬此舉。吳平,詔曰:「廣武將軍 唐彬 受任方隅,東禦吳寇,南臨蠻越,撫寧疆埸,有綏禦之績。又每慷慨,志在立功。頃者征討,扶疾奉命,首啟戎行,獻俘授馘,勳效顯著。其以彬為右將軍、都督巴東諸軍事。」徵拜翊軍校尉,改封上庸縣侯,食邑六千戶,賜絹六千匹。朝有疑議,每參預焉。 北虜侵掠北平,以彬為使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右將軍。彬既至鎮,訓卒利兵,廣農重稼,震威耀武,宣喻國命,示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆、擿何等並遣侍子入貢。兼修學校,誨誘無倦,仁惠廣被。遂開拓舊境,卻地千里。復秦長城塞,自溫城洎于碣石,緜亙山谷且三千里,分軍屯守,烽堠相望。由是邊境獲安,無犬吠之警,自漢魏征鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼,遂殺大莫廆。彬欲討之,恐列上俟報,虜必逃散,乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之,詔遣御史檻車徵彬付廷尉,以事直見釋。百姓追慕彬功德,生為立碑作頌。 彬初受學於東海閻德,門徒甚多,[一]獨目彬有廊廟才。及彬官成,而德已卒,乃為之立碑。
[一]彬初受學於東海閻德門徒甚多 御覽四四三引「門徒」上重「德」字,文義較明確。 元康初,拜使持節、前將軍、領西戎校尉、雍州刺史。下教曰:「此州名都,士人林藪。處士皇甫申叔、嚴舒龍、姜茂時、梁子遠等,並志節清妙,履行高潔。踐境望風,虛心饑渴,思加延致,待以不臣之典。幅巾相見,論道而已,豈以吏職,屈染高規。郡國備禮發遣,以副於邑之望。」於是四人皆到,彬敬而待之。元康四年卒官,時年六十,諡曰襄,賜絹二百匹,錢二十萬。長子嗣,[八]長子嗣 周校:長子某脫名。官至廣陵太守。少子岐,征虜司馬。 史臣曰:孫氏負江山之阻隔,恃牛斗之妖氛,奄有水鄉,抗衡上國。二王屬當戎旅,受律遄征,渾既獻捷橫江,濬亦克清建鄴。于時討吳之役,將帥雖多,定吳之功,此焉為最。向使弘范父之不伐,慕陽夏之推功,上稟廟堂,下憑將士。豈非懋勳懋德,善始善終者歟!此而不存,彼焉是務。或矜功負氣,或恃勢驕陵,競構南箕,成茲貝錦。遂乃喧黷宸扆,斁亂彝倫,既為戒於功臣,亦致譏于清論,豈不惜哉!王濟遂驕父之褊心,乖爭子之明義,儁材雖多,亦奚以為也。 唐彬畏避交爭,屬疾遲留,退讓之風,賢於渾濬遠矣。傳云「不拘行檢」,安得長者之行哉!

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