孫呉 > 『三国志』巻五十九 孫登伝・孫慮伝を読む

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孫権の愛されなかった長子、孫登伝

孫権の後継問題の最初の被害者

209年生まれの孫登には、ライバルがいた。すぐ下の弟の213年生まれの孫慮のほうが、孫権に愛されていた。しかし長子だから、孫権が呉王になった221年、王太子になった。229年、孫権が皇帝になると、孫慮は王に推薦され、強大な藩屏になった。孫慮は、232年に死んだ。
孫登の次のライバルは、224年生まれの弟の孫和。孫登は、自分が太子になった後に生まれた弟と、競わなければならなかった。孫登は、孫権の寵愛を受け損ねて、241年に死んだ。孫和は太子になったが、けっきょくその孫和も、さらに弟の孫覇と、同じ待遇で扱われる。

孫登は、孫権に、「孫慮を太子にすればいい」、「孫和を太子にすればいい」と辞退を伝えている。わりと、善政の実績があるのに。よほど、孫権から愛されていない自覚があったのでしょう。
「陸遜とともに武昌を守る」という仕事を投げ捨てて、建業にいる孫権の看病(というか、孫慮を失って消沈した孫権の激励)に赴いて、そのまま建業に残った。武昌は、自分がいなくても、機能することを知っていた。哀しい。

後継者に関するブレは、孫権の王妃・皇后にも波及する。孫登の母は、卑賎だから「不明」である。養母の徐夫人は、孫権に疎まれた。孫登が「養母の徐夫人を正妻にしてから、私を太子にして下さい」と孫権に言ったが、聞き入れられない。孫権が代わりに愛した歩夫人は、皇后にならずに、238年に死んだ。
孫権は、呉王から呉帝に進み、「名を正す」のが遅れたが、正妻を指名するのも、後継問題とともにズレにズレた。

呉王の太子となる

孫登、字子高、権長子也。魏黄初二年、以権為呉王、拝登東中郎将、封万戸侯、登辞疾不受。是歳、立登為太子、選置師傅、銓簡秀士、以為賓友。於是、諸葛恪、張休、顧譚、陳表等、以選入、侍講詩書、出従騎射。

孫登は字を子高。孫権の長子である。

孫登の出づる所を知らず、周寿昌の説が後ろにある。
妃嬪伝 孫権の徐夫人伝に、「(徐夫人に)母として孫登を養わせた。のちに孫権が移動するとき、嫉妬ぶかいので廃して呉に残した」とある。周寿昌によると、孫登は太子となったが、母が不明である。「母は子を以て貴い」という説は、衰退して行われなかった。『左伝』によると、州吁は嬖人(賎妾)の子であり、寵愛を受けたが、母の素性が分からない。
徐夫人伝によると、孫登が太子になると、群臣は「徐夫人を皇后に立てよ」と言ったが、孫権は歩夫人を皇后にしたいので、認めなかった。歩夫人伝は、歩夫人が嫉妬せず、宮中の女性の後ろ盾になったから……と、人格が評価されている。赤烏元(238)年、歩夫人は皇后の位が追贈されたから、歩夫人の死はこの年。
ぼくは思う。孫登の母が不明という点に、ミステリー要素がある。もしも孫登が皇帝になったら、「外戚は存在しない」という事態であった。ほんとうに下賎で分からないのか、バレたらマズいのか。養母の徐夫人は、徐琨の子である。徐夫人は、秘密を知っていそう。それで「嫉妬ぶかい」として、退けられたか。
孫登の母が、袁術の娘だったら、おもしろい(妄想)。孫登の生まれは、209年なので、不可能ではない。袁術の娘は、潘夫人伝 注引『呉書』で、子供が泣く、孫権の子を養育したが育たず、歩夫人のつぎに皇后の候補となったが固辞したという。孫権の皇后・皇太子は、二転三転するから、なにか特殊な事情がありそう。
ぼくは思う。「孫権が歩夫人の美貌と人格を愛した」という内面描写だけでは、信頼できない。群臣が徐夫人を推し、孫権が歩夫人を正妻にしたいと思うが、(群臣と対立して?)歩氏を正妻にし損ねた、というところに、君臣対立の火種が見える。同族の歩隲は、とくに悪評はないので、べつの力学が働いていそう。

魏の黄初二(221)年、孫権が呉王になると、孫登は東中郎将を拝し、万戸侯に封ぜられたが、病と称して受けず。

東中郎将は、『魏志』董卓伝に見ゆ。
『芸文類聚』巻51に、曹丕が孫登を封建したときの文がある。
《魏文帝冊孫權太子登為東中郎封侯文》曰:蓋河洛寫天意,符讖述聖心,昭晰著明,與天談也。故易曰:河出圖,洛出書,聖人則之,孫將軍歸心國朝,忠亮之節,同功佐命,而其子當為魏將軍,著在圖讖,猶漢光武受命,李氏為輔,王梁孫咸,並見符緯也。斯乃皇天啟祐大魏,永令孫氏仍世為佐,其以登為東中郎將,封縣侯萬戶,昔周嘉公旦,祚流七胤,漢禮蕭何,一門十侯,今孫將軍亦當如斯,若夫長平之榮,安豐之寵,方斯蔑如。陳徐陵進武帝為長城公詔曰:德懋懋官,功懋懋賞,皇王盛則,所謂元龜,司空公南徐州刺史長城縣開國侯諱,志懷夤亮,風度弘遠,體文經武,明允篤誠,曩者率五嶺之彊兵,誅四海之讎敵,固以勒功彝鼎,書勳太常,克定京師,勤勞自重,自鎮撫枌榆,永寧豐沛,東涼既息,北蔡無歸,代馬燕犀,氣雄天下,裹糧坐甲,固敵是求,方欲大討於秦崤,敦脩於與睦,協謀上相,爰納朕躬,思所以敬答忠勳,用申朝典,可進爵為長城縣公。
光武帝が受命すると、李氏が輔となり、王梁・孫咸の名も符瑞・緯書に表れたことに準え、曹丕を光武帝とし、孫権・孫登を、李氏・王梁・孫咸に準える。周が周公旦の「七胤」までを封建し、前漢が蕭何を「一門十侯」としたことに準える。

この年(孫権が40歳の221年)、孫登を(呉王の)太子に立て、師傅・秀士を選出し、賓友とした。

程秉が太子太傅になったことが、程秉伝に見える。
黄武四年、孫権は、周瑜の娘を、孫登の妻とした。程秉伝・周瑜伝に見える。さらに孫権は、才女を選び、芮玄の娘を后にしたと、潘濬伝にひく『呉書』に見える。

諸葛恪・張休・顧譚・陳表(陳武の子)らは、選ばれて(太子の府)入り、侍って詩書を講し、出でて騎射に従った。

権、欲登読漢書、習知近代之事。以張昭有師法、重煩労之、乃令休従昭受読、還以授登。登、待接寮属、略用布衣之礼、与恪休譚等、或同輿而載、或共帳而寐。

孫権は、孫登に『漢書』を読み、近代のことを習知させたい。張昭は師法がある(正統的な解釈を学んでいる)が、さらに彼を煩わせたくないので、(子の)張休に読解を学ばせ、孫登に教授させた。

『范書』列女伝に、扶風の馬融が、班昭から読みを教わったとある。王鳴盛によると、『漢書』は師法がないと読むことができず、この孫登が実例である。
唐庚によると、劉備は劉禅に『漢書』を教え、孫権もまた張休から孫登に『漢書』を教えさせた。孫権・劉備の智は、二帝三王を知らず(当代の漢の歴史で、学習を間に合わせようとし)天下統一できずに終わった、という人もいる。そうではない。伊尹が太甲に教えるとき、夏后を学ばせたが、唐虞(尭舜)まで遡らなかった。周公が成王に教えるとき、商(殷)の三宗を学ばせたが、唐虞まで遡らなかった。伊尹・周公の智が、尭舜禹を学ばず、当代のことを(後継者に)学ばせたように、『漢書』を学ばせた劉備・孫権も、当代のことを学ばせたのである。

孫登は、寮属を待接するとき、ほぼ布衣の礼を用いた。恪・休・譚らは、同じ輿に載ったり、帳を共にして寝た。

太傅張温、言於権曰「夫、中庶子、官最親密、切問近対、宜用雋徳」於是乃、用表等、為中庶子。後又以庶子礼拘、復令整巾侍坐。

太傅の張温は、孫権に言う。「中庶子は、もっとも親密で、身近で意見する者ですから、すぐれた徳のひとを選べ」と。陳表を中庶子とした。
のちに(太子のもとの官である)庶子らが、礼にこだわるから、巾を整えて(冠をかぶらず)侍坐させるようにした。

中庶子は、『魏志』鮑勛伝に見ゆ。『東観記』に、中庶子は、入りて侍講したとある。
『宋書』百官志下に、「庶子四人,職比散騎常侍、中書監令。晉制也。漢西京員五人,漢東京無員,職如三署中郎。古者諸侯世〔祿,卿大夫之子即為副倅,謂之國子,天子諸侯〕子有庶子之官,〔以掌教之〕 秦因其名也。秩四百石」とある。
孫登は、身分の分け隔てのない、という立場を強調した。個人のキャラによるかも知れないが、呉王の君主権力の弱さに起因するかも知れない。


呉帝の太子となり、四友と付きあう

黄龍元年、権称尊号、立為皇太子。以恪為左輔。休右弼。譚為輔正。表為翼正都尉。是為四友、而謝景、范慎、刁玄、羊衜等、皆為賓客〔一〕。於是、東宮号為多士〔二〕。
〔一〕衜音道。

黄龍元(229)年、孫権が皇帝になると、皇太子となった。

趙一清によると、『方輿紀要』巻20に引く『宮苑記』に、西池は、呉の宣明太子の孫登がうがった。太子池ともいい、建康宮の西隅にあると。趙一清が考えるに、「宣太子」が正しい。

諸葛恪を左輔、張休を右弼、顧譚を輔正、陳表を翼正都尉とした。彼らを四友とした。

胡三省によると、輔正および翼正都尉は、どちらも呉が初めて置いたと。潘眉によると、左輔・右弼、輔正は、いずれも都尉の名であり、翼正とともに東宮の官属である。

謝景・范慎・刁玄・羊衜(ヨウドウ)らを、賓客とした。東宮は「多士である」と評判をとった。

范慎は、孫晧伝の建衡三年に見える。張玄のことは、孫晧伝 建衡三年に引く『江表伝』に見える。


〔二〕呉録曰、慎字孝敬、広陵人、竭忠知己之君、纏緜三益之友、時人栄之。著論二十篇、名曰矯非。後為侍中、出補武昌左部督、治軍整頓。孫晧移都、甚憚之、詔曰「慎勲徳俱茂、朕所敬憑、宜登上公、以副衆望。」以為太尉。慎自恨久為将、遂託老耄。軍士恋之、挙営為之隕涕。鳳凰三年卒、子耀嗣。
玄、丹楊人。衜、南陽人。
呉書曰、衜初為中庶子、年二十。時廷尉監隠蕃交結豪傑、自衛将軍全琮等皆傾心敬待、惟衜及宣詔郎豫章楊迪拒絶不与通、時人咸怪之。而蕃後叛逆、衆乃服之。

范慎・張玄・羊衜の列伝。

〔二〕つづき。江表伝曰、登使侍中胡綜作賓友目曰「英才卓越、超踰倫匹、則諸葛恪。精識時機、達幽究微、則顧譚。凝辨宏達、言能釈結、則謝景。究学甄微、游夏同科、則范慎。」衜乃私駁綜曰「元遜才而疏、子嘿精而狠、叔発辨而浮、孝敬深而狹。」所言皆有指趣。而衜卒以此言見咎、不為恪等所親。後四人皆敗、呉人謂衜之言有徴。位至桂陽太守、卒。

おもしろいので、ちくま訳を写しておく。
『江表伝』にいう。孫登は、侍中の胡綜に命じて、太子の賓友の品評目録を作らせた。「卓越した英才をそなえ、比倫を絶しているのは、諸葛恪。時の動きを精確に見定め、事物の背後にかくれた意味を見通せるのが、顧譚。綿密な議論は多方面にわたり、言葉によって紛糾した問題を解決できるのが、謝景。学問をきわめ深遠な道理を知り、〔孔子の弟子の〕子游・子夏の才能を持つのが、范慎」と。
羊衜は、反駁を加えた、「諸葛恪は才能はあっても緻密でなく、顧譚は精確であるが容赦がなく、謝景は口はうまいが浮つき、范慎は学問は深いが視野がせまい」と。羊衜は恨みを買い、諸葛恪から冷たくされた。四友は身を誤った。羊衜は桂陽太守となった。

何焯はいう。謝景・范慎は、身を誤ってはいない。


政治手腕があるが、孫権に愛されない

権、遷都建業、徴上大将軍陸遜、輔登、鎮武昌、領宮府留事。登、或射猟、当由径道、常遠避良田不践苗稼、至所頓息又択空間之地。其不欲煩民、如此。嘗乗馬出、有弾丸過。左右求之、有一人操弾佩丸。咸以為是、辞対不服、従者欲捶之、登不聴、使求過丸、比之、非類、乃見釈。又、失盛水金馬盂。覚得其主、左右所為。不忍致罰、呼責数之、長遣帰家、敕親近勿言。

孫権が建業に遷都すると、上将軍の陸遜を徴し、(陸遜に)孫登を輔佐させ、武昌に鎮し、宮府の政事を領させた。孫登が狩猟に行くとき、良田を避けて、苗を踏まず、空き地で休んだ。民を煩わさないのは、このようである。
乗馬して外出すると、弾丸がよぎった。左右のものが、発射する器具をもつ人を捕まえたが、孫登は、弾丸の種類が違うから、釈放した。
金だらいが紛失したとき、左右のものがやったが、責めただけで帰らせ、親近するものに、このことを他言させなかった。

賞罰が適切である。というか、やみくもに冤罪を作らない。これは、孫登を資質なのでしょう。父の孫権を、反面教師にしたのかなあ。


後、弟慮、卒。権、為之降損。登、昼夜兼行、到頼郷、自聞、即時召見。見権悲泣、因諫曰「慮、寝疾不起、此乃命也。方今、朔土未一、四海喁喁、天戴陛下。而、以下流之念、減損大官殽饌、過於礼制。臣窃憂惶」権、納其言、為之加膳。住十餘日、欲遣西還、深自陳乞、以久離定省、子道有闕。又陳、陸遜忠勤、無所顧憂。権、遂留焉。

のちに弟の孫慮が死んだ。孫権はがっかりした。孫登は、(武昌から建業に)昼夜とおして頼郷に駆けつけ、孫権の面会した。

頼郷は、孫休伝 永安三年にある。

孫権に、「哀しんでないで、きちんと食べて」と頼んだ。十余日どとまり、西に(武昌へ)帰ろうとしたが、孫権に子として仕えたいし、

『礼記』曲礼によると、人の子としての礼とは、冬は温め、夏は冷やし、手にとって飲食を助けること。ぼくは思う。孫登が「孫権に食わせる」のは、この『礼記』の介護みたいな規定のイメージか。

陸遜に任せれば(武昌は)心配ないので、建業に留まった。

ぼくは思う。孫登は、父の孫権が、孫慮・孫和へと目移りするから、安心できなかった。秀才の典型的な行動を取っているが、キャラクターが見えてこない。「孫慮の死&過剰な親孝行」も、孫慮が死んだから、健康を害して哀しむ父親を見て、複雑な気持ちだろうし、しかし、「孫慮が死んで、孫登は安泰だね」と、父に言われたらいけない。孝子のポーズが必要。
孫登は、呉の王太子に221年になるが、孫和が224年に生まれた。自分が太子になった後、生まれた小さな弟にも、地位を脅かされていた。それほど、孫権にとって孫登は、物足りない存在だった。もしくは、虐げたい理由があった。この蔑ろぶりから、ぼくは、「出生の秘密」を疑ってしまうわけです。
232年、孫慮がやっと死んだと思ったら、孫和が、可愛がられた。


嘉禾三年、権征新城、使登居守、総知留事。時年穀不豊、頗有盜賊。乃表、定科令。所以防禦、甚得止姦之要。

嘉禾三(234)年、孫権が合肥新城を攻めると、孫登に(建業を)留守させ、政事の全般を委ねた。このとき、穀物が不作で、盗賊が多かった。上表し、科令(刑法)を定めた。盗賊を防止して、悪事を止めさせるのに、有効であった。

初、登所生、庶賤、徐夫人少有母養之恩。後、徐氏以妬、廃、処呉、而歩夫人最寵。歩氏有賜、登不敢辞、拝受而已。徐氏使至、所賜衣服、必沐浴服之。登、将拝太子、辞曰「本立而道生。欲立太子宜先立后」権曰「卿母、安在」対曰「在呉」権默然〔一〕。
〔一〕呉書曰、弟和有寵於権、登親敬、待之如兄、常有欲譲之心。

孫登は庶賤の生まれで、徐夫人が母として養われた恩があった。のちに徐氏は嫉妬によって廃され(孫権から遠ざけられ)呉郡に残ると、歩夫人がもっとも寵愛された。歩氏から賜るとき、孫登は辞退せず、拝受するだけ。徐氏の使者がきて衣服を賜ると、沐浴してから着た(徐氏のほうに懐いた)。孫登が太子を拝するとき、辞退して、「根本が立てば、道理が生じる。太子を立てるなら、先に皇后を立てなさい」と。孫権「(皇后にするべき)きみの母は、どこにいるか」と。「呉郡にいます」。孫権は黙った。〔一〕。
『呉書』にいう。弟の孫和は、孫権に寵愛された。孫登は、孫和を親敬し、(孫和のほうを)兄のように付きあい、につねに譲りたい心があった。

孫登は屈折がある。養母の徐氏を皇后にしてほしい。孫権はそれを許さない。だったら、孫権に愛されている孫和を太子に立てればよいだろうと。この屈折、イイネ!!
孫登は、孫権にあまり愛されていなかった。少なくとも、孫登の感じ方としては。「長子である」という既成事実により、孫登の立場は保障され、孫権の「後継者の目移り」が発動しなかった。だが、発動しても不思議でなかった。


33歳で死に、長い遺言

立凡二十一年、年三十三、卒。臨終、上疏曰

太子に立てられて21年、33歳のとき死んだ。

孫登は、黄初二年に立てられ、赤烏四年に卒した。建安十四年生まれ。孫権は二十八歳のとき初めて長子の孫登が生まれ、六十歳のときに死なれた。赤烏五年、孫和を太子とした。赤烏十三年、孫和を廃して故鄣におらせ、孫覇に死を賜って、孫亮を太子に立てた。孫登の死により、呉の滅亡が始まったと。
ぼくは思う。孫登伝を読んでも、孫登のキャラが見えてこない。良くも悪くもキャラを発揮する前に、死んでしまった。だから理想化しとけ、みたいな。以前、「孫登は、孫権に似てて、暴君の片鱗が見える」みたいな話を、どこかで読んだのですが(内容も発言者も忘れました、ごめんなさい)どの史料でしょう。

つぎに始まる上疏は、孫登その人に意志というより、241年時点の呉臣の立場に関する、紹介文という感じ。諸葛亮の出師の表に似ている。あれは、諸葛亮の意志を反映していたが、227年時点の蜀臣のリストでもあった。

「臣以無状、嬰抱篤疾、自省微劣、懼卒隕斃。臣不自惜、念当、委離供養、埋胔后土、長不復奉望宮省、朝覲日月、生無益於国、死貽陛下重慼、以此為哽結耳。臣聞、死生有命、長短自天。周晋、顔回、有上智之才而尚夭折。況、臣愚陋、年過其寿、生為国嗣、没享栄祚、於臣已多、亦何悲恨哉。方今大事未定、逋寇未討、万国喁喁、係命陛下、危者望安、乱者仰治。願陛下、棄忘臣身、割下流之恩、修黄老之術、篤養神光、加羞珍膳、広開神明之慮、以定無窮之業、則率土幸頼、臣死無恨也。

先立つ不孝を、お許しください……。

皇子和、仁孝聡哲、徳行清茂、宜早建置、以繋民望。諸葛恪、才略博達、器任佐時。張休、顧譚、謝景、皆通敏有識断、入宜委腹心、出可為爪牙。范慎、華融、矯矯壮節、有国士之風。羊衜、辯捷、有専対之材。刁玄、優弘、志履道真。裴欽、博記、翰采足用。蒋脩、虞翻、志節分明。凡此諸臣、或宜廊廟、或任将帥、皆練時事、明習法令、守信固義、有不可奪之志。此皆陛下日月所照、選置臣官、得与従事、備知情素、敢以陳聞。

孫和を太子とし、諸葛恪を輔佐に。張休・顧譚・謝景は、入りて腹臣、出て爪牙。范慎・華融は、国士。羊衜は使者。張玄は道義。裴欽(厳畯伝に見ゆ)は文才。蒋脩・虞翻は、志節。

何焯は、虞翻を誤りとする。虞翻は交州で没して、すでに十余年が経過してると。盧弼によると、孫登は赤烏四年五月に死に、虞翻は赤烏二年に死んだ。遠隔地だから、死が伝わってないかも。
ぼくは思う。虞氏で、次世代の人材がいて、書き誤ったのでは。


臣重惟、当今方外多虞、師旅未休、当厲六軍、以図進取。軍以人為衆、衆以財為宝。窃聞、郡県頗有荒残、民物凋弊、姦乱萌生。是以、法令繁滋、刑辟重切。臣聞、為政聴民、律令与時推移。誠宜与将相大臣詳択時宜、博采衆議、寛刑軽賦、均息力役、以順民望。

外敵がいますが、民政もよろしく。

陸遜、忠勤於時、出身憂国、謇謇在公、有匪躬之節。諸葛瑾、歩騭、朱然、全琮、朱拠、呂岱、吾粲、闞沢、厳畯、張承、孫怡、忠於為国、通達治体。可令陳上便宜、蠲除苛煩、愛養士馬、撫循百姓。五年之外、十年之内、遠者帰復、近者尽力、兵不血刃、而大事可定也。臣聞、鳥之将死其鳴也哀、人之将死其言也善。故、子囊臨終、遺言戒時、君子以為忠。豈況臣登、其能已乎。願陛下留意聴采、臣雖死之日猶生之年也」

陸遜は国家のために働いている。諸葛瑾・歩隲・朱然・全琮・朱拠・呂岱・吾粲・闞沢・厳畯・張承・孫怡は、忠臣です。彼らとうまくやってね」と。

子の孫英のこと

既絶而後、書聞。権益以摧感、言則隕涕。是歳、赤烏四年也。謝景、時為豫章太守、不勝哀情、棄官奔赴、拝表自劾。権曰「君、与太子従事、異於他吏」使中使慰労、聴復本職、発遣還郡。諡登、曰宣太子〔一〕。
〔一〕呉書曰、初葬句容、置園邑、奉守如法、後三年改葬蒋陵。

孫登の死後、この手紙が届けられ、孫権は泣いた。赤烏四(241)年のことである。謝景は、このとき豫章太守。任地を放置して駆けつけ、みずから罪としたが、孫権は「きみは太子の属官だったのだから、他の吏と違う」と、とがめず。
宣太子と謚した。『呉書』によると、はじめ句容(孫権伝 赤烏八年)に葬られ、園邑が置かれたが、三年後、蒋陵(孫権陵)に改葬された。

子璠・希、皆早卒。次子英、封呉侯。五鳳元年。英、以大将軍孫峻擅権、謀誅峻。事覚自殺、国除〔一〕。
〔一〕呉歴曰、孫和以無罪見殺、衆庶皆懐憤歎、前司馬桓慮因此招合将吏、欲共殺峻立英、事覚、皆見殺、英実不知。

孫登の次子の孫英が、呉侯に封じられた。五鳳元(254)年、孫峻を誅殺しようとして、発覚して自殺し、呉侯国は除かれた。
『呉歴』はいう。孫和が無罪で殺されると、みな憤り歎いた。さきの司馬の桓慮は、(孫和の)将吏を招き集め、ともに孫峻を殺して、孫英を立てようとした。発覚して、みな殺された。じつは孫英は計画を知らなかった。

謝景者字叔発、南陽宛人。在郡有治迹、吏民称之。以為、前有顧劭、其次即景。数年卒官。

謝景は、南陽の宛のひと。(豫章太守として)郡にあって治績があり、吏民にたたえられた。まえに顧邵がおり、謝景はそのつぎだと称えられた。数年して、在官に卒した。171029

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孫登よりも愛され、早死にした孫慮伝

藩王に推薦される

孫慮、字子智、登弟也。少敏恵有才芸、権器愛之。黄武七年、封建昌侯。

孫慮は、あざなを子智といい、孫登の弟。若くして敏恵で才芸があり、孫権は器量をみとめて愛した。黄武七(228)年、建昌侯に封じられた。

孫権が皇帝になる前年。呉王だった最後の年。
建昌は、孫権伝 黄武七年・太史慈伝にある。『寰宇記』巻111にある。


後二年、丞相雍等奏、慮性聡体達、所尚日新、比方近漢、宜進爵称王。権未許。

2年後(黄龍二年=230年)、上将の顧雍らが上奏して、孫慮の性は聡であり、体は達であり、日ごとに向上しているから、漢代の事例のように、王爵に進ませよと言った。孫権は、許さなかった。

孫慮が闘鴨欄をつくって、陸遜が諫めたら、即時に叩き壊した(諫言を聞いた)と、陸遜伝にある。孫慮は、潘濬の娘を納れた。潘濬伝にある。
ぼくは思う。孫慮の人脈に登録されているのは、潘濬である!顧雍は、群臣の意見を代表しただけかも知れないが、孫慮を評価していた。


久之、尚書僕射存、上疏曰「帝王之興、莫不褒崇至親、以光羣后。故、魯衛於周寵冠諸侯、高帝五王封列于漢。所以藩屏本朝、為国鎮衛。建昌侯慮、稟性聡敏、才兼文武、於古典制、宜正名号。陛下謙光、未肯如旧、羣寮大小、咸用於邑。方今、姦寇恣睢、金鼓未弭、腹心爪牙、惟親与賢。輒与丞相雍等議、咸以、慮宜為鎮軍大将軍、授任偏方、以光大業」権乃許之。

しばらくして、尚書僕射の存(姓が不明)が上疏した。

銭大昭によると、建衡元年、督軍の徐存が、監軍の李勖とともに、建安から海路で交阯を攻撃した。この徐存のことか、不明である。

「帝王が興るとき、至親を褒崇し、羣后を輝かせた。ゆえに、魯・衛は、周朝で諸侯のなかで抜きんで、高帝の五王(劉邦の五子)は、漢朝で列国となった。

周公は魯を封じ、康叔は衛を封じたが、どちらも武王の同母弟である。
劉邦には8人の男子がいたが、五王というのは、『漢書』高五王伝があるから。恵帝・文帝は、べつに本紀があるし、淮南王は別に列伝がある。
ぼくは思う。この徐存の発言は、『漢書』に基づいたものと分かる。

建昌侯の孫慮は、天性は聡敏で、才は文武を合わせています。古典の制度にしたがい、名号を正すべきです。陛下は控えておられるが、みな気に掛けています。有事に王朝を守るのは、そういう藩屏です。丞相の顧雍らもに、孫慮を鎮軍大将軍とし、偏方を授けて任じ、大業を輝かせるべきだと言ってます」と。孫権は許した。

鎮軍大将軍となり、半州に治す

於是、仮節開府、治半州〔一〕。慮、以皇子之尊、富於春秋。遠近嫌、其不能留意。及至臨事、遵奉法度、敬納師友、過於衆望。

ここにおいて、節を仮されて開府し、半州に治した。

半州は、張昭伝・薛綜伝に見ゆ。孫慮は、薛綜を長史としたと、薛綜伝に見える。薛綜のことは、黄龍三(231)年に見える。趙一清はいう。『方輿紀要』巻85によると、半洲城は、九江府の西90里にあり、晋代に築いたと。趙一清が考えるに、孫慮が封じられた建昌侯は、北は九江郡の尋陽県から90里である。ゆえにここで開府したと分かる。城があるから治所になったのだから、晋代は、新築ではなく修築だったのでは。

孫慮は、皇子であって尊く、将来性もある。遠近のひとは、意を留められない(ワガママになるの)を嫌った。しかし、政事をするときは、法度を守り、師友を敬い、期待を上回った。

〔一〕呉書載権詔曰「期運擾乱、凶邪肆虐、威罰有序、干戈不戢。以慮気志休懿、武略夙昭、必能為国佐定大業、故授以上将之位、顕以殊特之栄、寵以兵馬之勢、委以偏方之任。外欲威振敵虜、厭難万里、内欲鎮撫遠近、慰卹将士、誠慮建功立事竭命之秋也。慮其内脩文徳、外経武訓、持盈若沖、則満而不溢。敬慎乃心、無忝所受。」

『呉書』は孫権の詔を載せる。「孫慮は才能があるから、天下統一のために、働けそう。ゆえに上将の位を授け、偏方の任を委ねる。がんばってね」と。

年二十、嘉禾元年、卒。無子、国除。

20歳のとき、嘉禾元(232)年に卒した。171029

建安十八年に生まれ、孫登より4歳若く、孫登より10年早く死んだ。
半州に赴任して、その翌々年に死んだ。期待はずれ。孫慮が死ぬと、孫権が絶食して哀しんだから、慌てて孫登が、武昌から建業に移動し、慰めた。孫権が、孫慮に権限を与えるを渋ったのは、ポーズだけと分かる。孫慮に、太子の孫登に迫るような権威を与えた。この悪いクセは、孫和・孫覇でも、くり返される。

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